創世記3章のアダムとエバが神が取って食べてはならないと命じた善悪の知識の木の実を食べた話しは興味深いです。罪を考察するときに大きな助けとなります。
ある日、蛇がやってきて女に言います。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。
この蛇は悪魔を表していると言われます。悪魔は人間に罪を犯すように働きかける存在です。悪魔の存在など信じられないと言う方がおられるかもしれません。神を信じる者に罪を犯すよう働きかける力が現実にあります。聖書はそのような力を悪魔の働きと呼んでいると思います。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。こう言われて女は答えます。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。
すると蛇は言います。
「決して死ぬことはない」。
神が明確に語られたことを否定します。神は「食べると必ず死ぬ」と警告しました。しかし蛇は「決して死ぬことはない」と言います。神の言葉を疑わせたのです。神の言葉を疑わせる、これは悪魔の働きです。蛇はさらに言います。
「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。
神は人が神のように善悪を知る者となることを願っていないのだと蛇は言います。神は意地悪だという印象を与えます。神に対して悪い印象を与えるのは悪魔の常套手段です。女が見ると、その木はいかにもおいしそうでした。目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていたとあります。そしてついに手を出し、取って食べてしまいます。一緒にいた男にも渡したとあるので、二人とも食べてしまいました。
二人とも神の命令に背いてしまいました。やがて彼らは神に罪を咎められ、エデンの園を追放されました。罪は神の怒り、神の裁きを招きます。この神の裁きがいつ私たちの身に及ぶのかは分かりません。世の終わりの最後の審判の時、私たちの犯した罪が問われることを聖書は教えています。
聖書は同時に、イエス・キリストは私たちの罪のあがないのためのいけにえとしてご自身を献げられたと語ります。このキリストの犠牲のゆえに、私たちは罪に対する神の怒り、裁きを受けなくて済むようになったと聖書は語ります。
私たちは、自分が犯した罪に対する神の裁きから救われたと聖書は語ります。クリスチャンならだれもが知っている基本的な話しだと思います。