新型コロナウィルスによる感染が広まりませんように。このブログを読んでいる方々、そのご家族のかたがたが感染から守られるようにお祈りします。日本政府が思い切った大胆な施策を打ち出し、効果的に蔓延が防止されるように祈ります。
聖書に描かれている罪について紹介してきました。これらの聖句を踏まえ、罪について教えられることをまとめてみたいと思います。
2.罪とは神との関わりに真剣に生きないこと
(1)聖書が伝える神は人格神
聖書が語る罪は道徳的、倫理的なものではありません。つまり人間の具体的な行動の善し悪しから罪を考えるのではありません。罪は神との関わりで考えるものです。聖書が伝える神は人格をもった神です。漠然とした絶対的な存在というのではなく、人格を持った神です。人間と関わる神です。人間に語りかけます。創世記2章で神はアダムに対して語ります。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。
創世記6章5節には次のよう書かれています。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
ここでは、神は地上の人間の様子を「ご覧になり」、人を造ったことを「後悔し」「心を痛められた」とあります。聖書が伝える神は、このように人格を持つ神です。
(2)罪とは、人格を持つ神との関わりにおけるもの
神は人間を造られました。私たちはその被造物です。被造物として私たちは神との関わって生きるようにされています。人間は神と関わりながら生活を営みます。それが本来の人間の営みです。神との関わりぬきに生活を営むことはもちろんできます。神なしに生きる、それは人間の本来の営みではありません。
神との関わりに生きることを拒む態度、神との関わりに生きることに不誠実な態度はみな罪です。神を信じないことは罪です。たとい神を信じていたとしても、神と人格的な関わりをしなければ、それは罪です。私たちに関わろうとされる神を拒むことになりますから。
神との人格的な関わりに生きるために知るべきことがあります。第一に神と私との関係がいかなるものであるかを知ることです。聖書によれば、神は創造主、私たちは被造物。神は私たちの主、主なる神。私たちは神を主とするもの。あるいは神は父なる神、私たち信仰者は神の子。人間としての自分の立場を弁え、神と関わって生きることが人間の本来の歩みです。
(3)自分の罪を知るのは信仰生活に入ってから
罪は神との関わりにおけるものです。ですから信仰生活を始め、神との関わりに生きるようになってこそ、自分の罪を知るようになります。つまり自分が神との関わりにおいて神に対していかなる態度を取るかという点で、ふさわしくない考え方をし、ふさわしくない行動をしていることに気づかされますし、気づきます。そして罪の赦しの恵みを受け取っていきます。
(4)神との関わりにおける罪とは
神を信じるとは、神の御心を敬い、これを重んじ、従うことです。神に信頼することです。神の御心は聖書を読むことによって知ることができます。
神の教えを重んじても神の心を重んじないことがあります。イエスはファリサイ派や律法学者たちを偽善者と批判しました。神の教えを守っているかも知れないが、神の心には無関心な人を偽善者とイエスは批判したわけです。使徒パウロも神の掟を守ることにおいて、自分は誰にも劣らないと豪語しましたが、イエスを救い主として遣わされた神を信じませんでした。つまり神の御心を知ろうとせず重んじなかったのです。後に自分は罪人の頭(かしら)であると語りました。
私も神を信じ、神の御心を自分なりに大切にしてきたつもりでいましたが、神の御心を本質的には重んじていないことをある時、知らされました。それ以来、自分は罪深い者であると思っています。もちろん、イエス・キリストを信じ、私は義とされていることも信じています。私は罪深い者ですが、私のアイデンティティーは、罪赦され、神の目には正しい者、そして神の子です。
(5)罪の気づき
聖霊の働きによって自分が罪人であることをグサッと教えられた経験がなく、頭で自分は罪人であると思っている人、頭で自分は罪を犯していると思っている人は、聖書の言葉と向き合い、自分がどのように生きているかを顧みることを勧めます。そして聖書の言葉に従う生活を勧めます。きっと聖霊があなたの罪を教えてくれると思います。