聖書に描かれている罪について紹介してきました。これらの聖句を踏まえ、罪について教えられることをまとめてみたいと思います。
1.人間は生まれたときから、罪の支配下にある
(1)アダムとエバの物語から
アダムとエバは神の命令に逆らい、禁じられていた木の実を食べてしまいました。この物語は、もし私がアダムであったら、私も同じように禁じられていた木の実を食べたことを物語るもので、私も罪を犯す者であることを語っています。私は罪を犯す者として生まれたということです。アダムの物語は、私の物語です。
(2)ダビデの罪から
詩篇51編には姦淫と殺人の罪を犯したダビデの祈りがあります。7節にはこう書かれていました。
わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
この聖句も、私たちが生まれたときから罪の支配下にあり、罪を犯す者であることを教えています。
(3)神は人間を罪を犯す者として創造されたのか
人間は罪を犯すものとして神に造られたのでしょうか。もしそうなら、人間が犯した罪を神が責めるのは不当となります。人間は罪を犯すものとして造られたのではありません。
神は人間を含めた世界を造られ、それらをご覧になったとき、「極めて良かった」と言われました。つまり人間は罪を犯す者として創造されたわけではありません。神は人間を自由を持つものとして造られました。自由を持つ人間の創造を神は「極めて良かった」としたのです。自由ということは、悪を行うことも行わないことも人間の自由であるということです。
そしてどういうわけか、自由を与えられた人間は、罪を犯してしまうのです。自由な人間がなぜ、罪を犯してしまうのか。それは一つの謎です。罪を犯さないで生きることは人間には不可能です。神は人間に自由を与えました。それを神はよしとしたのです。神は人間を悪を決して行わないロボットのような存在には造られませんでした。
神は自由な方です。神はご自身に似せて人間を造り、人間に自由を与えました。神は自由ですが罪を犯すことはありません。人間は神ではなく、限界をもつ存在です。命には寿命があり、能力も限界があり、全能ではありません。色々な限界をもつ人間は、自由な者として造られましたが、どういうわけか罪を犯してしまいます。人はなぜ罪を犯すのか。自由のもつ神秘、と私は考えています。あえて言うなら、神ならぬ人間は、神になろうとして罪を犯します。つまり物事を自分の思い通りにしたいと考えて生きていきます。そこに罪が生まれます。