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隠退牧師 holala によるブログ

罪からの解放・自由(4)

 そもそも罪とは何なのでしょうか。それは創世記の最初に書かれています。神さまは土の塵から人を造りました。神様は人をエデンの園に連れて行き、お命じになりました。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。

 そして創世記3章に入り、人とその妻が善悪の知識の木の実をとって食べたことが記されています。蛇の言葉に耳を傾け、エバが木の実をとって食べ、夫にも与え、夫も食べ、神さまの命令に背いてしまいました。ここに罪が何か、具体的に描かれています。

 この物語から罪とは何かを理解することができます。第一に罪とは、神様の命令に背くことです。それは行為となって現れる罪です。ダビデが

「あなたに背いたことをわたしは知っています」(詩編51:5)

と語るとき、それは具体的な行為でした。彼は姦淫と殺人の罪を犯したのです。

 罪を具体的な行為としてとらえると、ある人たちは、自分は正しい人間になってきた、もしくは正しい人間であると考えることがあります。私自身、罪を克服していく中で、段々と自分は罪を犯しているとの思いが消えていきました。理屈の上では、知らずして犯す罪はあるでしょうが、これまで自分が罪としてきた罪を犯さなくなってきたのです。すると自分は清くなったと考えるのです。聖化です。自分はよくやっていると考えるのです。

 聖書に登場する律法学者やファリサイ派の人たちも自分たちは神の戒めを守っており、正しい人間だと信じていました。だからイエス様が彼らを偽善者と呼んだとき、彼らは怒りました。

 次にダビデは、詩編51でこうも告白しています。

わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

 ダビデは母の胎内にある時から、罪のうちにあったと告白しています。母の胎内にあって彼が具体的な罪を犯したとは思えません。母の胎内にある時、人は自分を意識することがまだできません。ここでは罪は具体的な行為ではなく、人間の心にあるものということができます。アダムとエバは、神の命令に逆らい罪を犯しました。これは言い換えると彼らは神をないがしろにしたということです。神をないがしろにする心があったのです。だから神の命令を破ったのです。つまり人間には神をないがしろにする心があります。これが罪です。

 「原罪」という言葉が使われます。人間には罪を犯す心があるとの意味だと思います。私は、原罪という抽象的な言葉ではなく、具体的に表現する方が良いと思っています。つまり神さまをないがしろにする心、これが原罪です。

 神を信じていると言いながら、信じているつもりになって礼拝説教をし、神の御心を説きながら、神の戒めに従う努力をしていると言いながら、神をないがしろにする心をもって生きていることに気づいたとき、私は自分が本当に罪深い者であると悟りました。「わたしは罪のうちにあった」とのダビデの言葉は自分のことだと知りました。そして今も罪のうちにあります。

 しかし今、私は罪の奴隷ではないし、イエス・キリストの救いの恵みにより、罪から解放されています。罪から自由です。

 罪とは第一に神の教えに背くことです。第二に神をないがしろにする心です。