「私は罪深い」と語る人たちに出会うことがあります。この人たちは「罪深い」の中にとどまっているのではないかと思います。そこから抜け出ようとしないのです。このような人たちがいる、これは私の推測です。自分の罪を語ることを人はなかなかしないものです。それゆえ、私の推測となります。
人はなぜ、「罪深い」の中にとどまるのでしょうか。一つの理由は恐れや不安です。罪から解放される、罪から自由になれると聞いて、人(信仰者)はどう思うのかと想像します。これは聖書に書いてあることです。単純にすばらしいと思うのでしょうか。それとも・・・・。
ある人たちはこれを聞いて、もしこれを信じて、実際に罪からの解放、自由を手に入れたら自分はどうなるのだろうか、自分はどこに連れて行かれるのだろうか、との不安や恐れを無意識のうちにもつのではないかと私は推測します。ある人が言いました。
「神さまに信頼すればいい。それは分かっている。でも・・」
と口を濁すのです。神さまに信頼すべきことは分かっている、でもそれができない、私は罪深い者ですと告白し、でも赦されていると赦しを感謝するのです。でもそこから抜け出ようとしないのです。結局ぬるま湯の中にいるのです。自分の歩みを神さまにすべてゆだねることはしないで、自分の裁量で生きて行くことを選ぶのです。
もう一つの理由は、神さまに従うことに悔しさみたいなものを感じるのです。私の妻は、かつて匿名の教会員から中傷を受け、非常に傷ついたことがあります。「赦しなさい」と聖書は教えますが、これだけひどいことをされて赦せるはずがない、と妻は考えました。その気持ちは無理ないと思います。妻は「赦せない」でも「赦さなければならない」の葛藤の中で、神さまの導きを得て、赦しました。
でも普通、赦せるはずがないものを赦すことはできません。なぜ赦さなければならないのか、自分のプライドや、赦すことへの悔しさがあります。それなら自分は赦すことのできない「罪深い者である」の中にとどまっているほうが楽なのです。