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隠退牧師 holala によるブログ

赦すということ

 今日、夜の祈祷会で、「赦す」ことが少し話題となりました。ペトロは主イエスに「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と尋ねました。すると主イエスは、「七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになりました。つまりいつでも赦しなさいとのお答えです。

 私は赦しについてこう考えています。

  • 私に対して罪を犯した兄弟が謝罪したら、私は赦します。主イエスの言葉に賛成です。
  • 私に対して謝罪しない場合は、赦しません。
  • しかし赦せないという思いに支配されないように気をつけます。他者が私の自由、平安を妨げることがないように私は努力します。
  • 謝罪を受けたときすぐに赦せるように、いつでも赦せる心の用意をしておきます。

 主イエスはペトロに答えた後、たとえを話されました。ある王が家来たちに貸した金の決済を行うことにしました。莫大な借金をしていたある家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。その借金は、返済できるような額ではありません。しかし王は彼を憐れに思い、借金を帳消しにしました。

 その家来が王のもとを去り、歩いているとひとりの仲間に出会いました。彼はその仲間にわずかですがお金を貸しています。そこで返済を迫ります。その仲間は「待ってくれ、返すから」と言いましたが、その家来は、仲間を引っ張っていき、借金を返すまで獄に入れました。

 それを見て心を痛めた人が王のもとに行き、このことを報告しました。すると王はこの家来に対して、「わたしはあなたを憐れみ、借金を帳消しにした。あなたも仲間に対して憐れんでやるべきではなかったか」と語り、王は家来が借金をすっかり返済するまで牢に入れました。

 神さまは私に言います。「わたしはあなたを憐れみ、あなたの罪を赦した。あなたも仲間に対して憐れんでやるべきではないか」。だから私は、私に対して罪を犯した人が謝罪に来たら赦します。私が神さまに憐れみを受けて罪赦されたように、彼を憐れみます。だから、いつでも赦せる用意はしておきます。しかし、謝罪に来なければその人を赦しません。何もなかったかのように見過ごすことはできません。それは自分をごまかすことになります。

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