クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

7月8日G教会で説教奉仕の予定でした。西日本豪雨のため6日の金曜、7日の土曜、JRは運休でした。そこでG教会には行かないことにしました。説教原稿をメールで送り、それを代読していただきました。豪雨が収まると梅雨が明け、猛暑日が続いています。命を守るための対策を取ってくださいとのこと。
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聖書 詩編51:1〜14
説教 わたしの内に清い心を創造し
2018/07/08

→今日は詩篇51編の前半を取り上げます。
この詩篇には表題がついています。
ダビデがバトシェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」とあります。
どういうことでしょうか。


→サムエル記下11章の最初にこう書かれています。

「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。
彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。
女は大層美しかった」。

早速ダビデは行動を起こします。

ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、
彼女が彼のもとに来ると、床を共にした」。

つまりダビデは権力にモノを言わせ、
「きれいだ」と思った女性と関係を持ったのです。


→しばらくするとこの女性のもとから知らせが届きます。

「子を宿しました」。

彼女は、ダビデの子を身ごもったことになります。
そこでダビデは彼女の夫を戦場から呼び戻し、
家で休息を取ってよいと許可を与えます。
戦場での緊張感から解き放たれ、
家で妻とのゆっくりした時を持ちなさいというのです。
そうすれば、お腹の中の子は、夫との間にできた子となります。
しかし彼女の夫ウリヤは、家に帰ろうとしません。
ダビデに言います。

「主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか」。

そこでダビデは、ウリヤを戦死させるように手配します。
戦場にいる将軍に対して、戦いの最前線にウリヤを送り、戦死させよ、と命令します。
ダビデは、姦淫と殺人を行ったのです。


ダビデのこの行為は、神の御心にかなうものではありませんでした。
神さまがイスラエルに与えた戒め、十戒に背く行為でした。
十戒には、殺してはならない、姦淫してはならないとあります。
そこで神はナタンをダビデのもとに送り、
ダビデの罪を指摘させました。
その時のダビデの思いがこの詩編51編だというのです。

ダビデ詩編51編の5〜6節で自分の罪を告白します。

「あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
御目に悪事と見られることをしました」。

→ここでちょっと気になることがあります。
「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」とあることです。
ダビデ王は、ウリヤの妻バトシェバを自分のものにし、
さらにはウリヤを戦死させます。
ダビデはウリヤに対して、ひどいことをしたのです。
彼の妻バトシェバにも権力に物を言わせて関係を持つという悪を行ったのです。
それなのに「あなたに、あなたのみに」罪を犯したという表現が引っかかります。
そこで思います。
罪というのは、神に対して犯すものだということです。
人間に対しては悪事を働き、神に対して罪を犯すということです。
罪は、神との関係で考えるものだということです。


→私たちは罪の大きさを考えることがあります。
人を殺す、これは大きな罪だと考えます。
自分を守るためにささやかな嘘を言う。
これは小さな罪だと考えるのです。
このように罪の大小を考えていると、
いつの間にか、自分は罪を犯していないような気持ちに誘われることがあります。
罪とは何か悪事をすることと考えると、
その悪事の大きさを私たちはつい考えてしまうのです。
しかし罪は、何をしたか、ということより、
神に背くこと、神との関係において神を裏切ること、
と考える方がよいのではないかと考えています。
ダビデが、「あなたに、あなたのみに私は罪を犯し」と告白したのも、
罪は、神に対するものであることを教えているように思います。
ダビデは罪を告白しました。

→その罪の告白には続きがあります。
7節です。

「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」。

母の胎内にある時、すでに「わたしは罪のうちにあった」と告白するのです。
そして「咎のうちに産み落とされ」とあります。
人は、「産まれたばかりの赤ん坊は無垢である」と言います。
生まれたばかりの子は、何の汚れにも染まっていないというのです。
しかし今日の聖書は全く違うことを語っています。
母の胎内にある時から、罪のうちにあったというのです。


→どういうことでしょうか。
新約聖書にある言葉を用いて言うなら、
人は罪の支配下のもとにあるということです。
罪の支配下のもとにあるということは、
人は罪を犯さないでいることはできないということです。
人は必ず罪を犯すというのです。
そう言うと、罪を犯すように人間が造られているのなら、
人間に罪の責任を問うのはおかしいと人は言うかも知れません。
神が人間を造ったのなら、罪を犯すように人間を造った神に罪の責任があると人は言うかも知れません。
ここでは二つのことが真実であることをお伝えしたいと思います。
第一に、人は罪の支配下に置かれており、罪を犯さないでいることはできないこと。
第二に、人は自由であり、罪を犯すとき、その責任はその人にあるということです。


ダビデは信仰深い王でしたが、権力のある地位にいる内に思い上がり、
自分の思い通りにしたいとの思いに誘われ、神に対して罪を犯したのです。
人は生まれたときから罪の支配下にある、との重要な真理をダビデは私たちに教えています。
しかしイエス・キリストは、私たちを罪の支配から解放してくださった救い主です。

→自分の罪を告白したダビデは、神に願い求めます。
3節「背きの罪をぬぐってください」。
4節「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」。
9節では「わたしの罪を払ってください」、「わたしを洗ってください」。
自分が罪を犯した事実をなかったことにしてくださいとの願いです。
私たちも、自分が過ちを犯したとき、その過ちをする前に戻りたいと願います。
しかし事実を消すことはできませんし、なかったことにすることはできません。
私たちは、自分が行ったことをなかったことにすることはできません。
自分が行ったことをごまかすこともできません。
私たちにできることは、神さまに赦しを求めることです。
「罪をぬぐう」「咎を洗う」「罪から清める」と表現は様々ですが、
罪の赦しを神さまに求めています。


→赦しを求められたら、神さまはどうされるのでしょうか。
神さまご自身の言葉に耳を傾けます。
エレミヤ書31章で神は言われます。

「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。

イザヤ書43章25節で神は言われます。

「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする」。

神さまが私たちの罪を赦されるとき、
神さまは、私たちの罪を心に留めず、思い出すことをしない、というのです。
これが神さまが与える罪の赦しです。
ダビデはこの神の赦しを求めたのです。


ダビデは12節で、

「神よ、わたしのうちに清い心を創造してください」

と願っています。
清い心を神さまに求めています。
言い換えると二度と同じ罪は犯さない、との決意がここに表れています。
これを「悔い改め」と言います。
これは大切な決心です。大切な覚悟です。
人は罪の支配下に置かれていますから、同じ罪を繰り返す可能性はあります。
でも、だから、同じ罪を二度と犯したくないと願うか、
同じ罪を繰り返すのは仕方がないと考えるのか、
これは大きな違いです。
エス様の言葉で、私が大切にしている言葉があります。
「あなたの信じたとおりになるように」との言葉です。


→これはイエス様のもとに百人隊長がやってきたときのイエス様の言葉です。
百人隊長が自分のしもべの病気のいやしをイエス様に願います。
エス様は「あなたの家に行っていやしてあげよう」と言われます。
すると百人隊長は言います。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕(しもべ)はいやされます」。
するとイエス様は、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われました。


ダビデは、同じ罪は二度と繰り返したくない、だから清い心をわたしの内に造ってくださいと祈りました。
ダビデの悔い改めです。
神さまは、清い心を造ってくださると信じたのです。
同じ罪を繰り返さない者になりたいと願い、
「あなたの信じたとおりになるように」とのイエス様の言葉を聞く人は幸いです。
エス様は、私たちにも「あなたの信じたとおりになるように」と語りかけておられます。

→では清い心とはどのような心のことでしょうか。
皆さんは、清い心というとどんな心を思い浮かべるでしょうか。
人を憎んだり、妬んだり、よこしまなことを考えたりしない心を考えられるでしょうか。
悪口を言わず、人の足を引っ張ろうとはしない心を考えられるでしょうか。
よこしまな思いが少しもない心を言うのでしょうか。
そうではないと思います。


→イエス様はおっしゃいました。
「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る」。
心の清さは、神さまと関係があります。
詩編24にはこう書かれています。

「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか」。

つまりどのような人が神の前に立つことができるのかと問いかけています。
これに対して、

「それは、潔白な手と清い心をもつ人」とあります。

さらに

「それは主を求める人/御顔を尋ね求める人」

と続きます。


→清い心とは、神を求める心、神さまの御心に関心を示す心です。
聖書を読んで、神さまがいかなる人かを知り、
神さまが願う生き方をする人、その人が心の清い人です。
心の清い人は、失敗のない人ではありません。
神さまの御心を行うことに失敗しても、
それを繰り返す中で、御心を行って生きるようになる人
その人が心の清い人です。
神さまの御心を知る人が、神を見る人なのです。

→では私たちは、自分の努力で清い心を持つことができるのでしょうか。
どう思われますか。
きっと皆さんは、努力をされたのではないでしょうか。
努力しても清い心を持つことができず、
自分のことを情けない信仰者だと思ったことがあるかもしれません。
聖書によれば、私たちは罪の支配下にあります。
ですからどんなに努力しても清い心を持つことはできません。
それなら絶望しか残っていないのでしょうか。
そこで私たちは、神さまを信じます。
イエス・キリストを信じ、洗礼を受けます。
するとどうなるのでしょうか。


→テトスの手紙3章の言葉を紹介します。

「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、
御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。
この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」。

洗礼を受けた者は、聖霊によって新しく生まれたのです。
新たに造りかえられたのです。
もう一つ聖書の言葉を紹介します。コリントの手紙二5章の言葉です。

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。

このみ言葉も、洗礼を受けキリストに結ばれた私たちは、新しく創造されたものであると語っています。


ダビデは12〜14節で聖霊について語っています。
12節では「新しく確かな霊を授けてください」とあります。
14節では、「自由の霊によって支えてください」と願っています。
いずれも聖霊の助けを求めています。
私たちは聖霊の働きをいつも願います。
聖霊は神さまですから、自由に働かれます。
聖霊の確かな働きがあります。
それは聖書の言葉が真理の言葉であると私たちに教え、
御言葉によって生きるように私たちを導くということです。
それは別な表現をすれば、私たちの心を清くしてくださるということです。


ダビデは、自分の罪を悔い改め、
聖霊の助けによって清い心が自分の内に造られることを願っています。
神さまはその願いを聞かれるのでしょうか。
姦淫と殺人という大それた罪を犯したダビデには、
願いをかなえていただく資格はないのでしょうか。
ダビデ祈ります。3節。

「神よ、私を憐れんでください。御慈しみをもって」。

「深い御憐れみをもって」と。
ダビデは神様の憐れみ、慈しみにすがって祈ります。
神さまが憐れみ深い方、慈しみの富む方であることを証ししています。


→聖書が証しをする神さまは、憐れみ深い神、慈しみ深い神さまです。
恵みに満ちた神さまです。
私たちは、この神さまに信頼します。
そして神さまはその憐れみのゆえに、
清い心を私たちのうちに創造してくださいます。
イエス・キリストのゆえに私たちの罪を赦し、
私たちのうちに清い心を創造してくださる神さまをたたえます。