「A長老、こんにちは」
「Cさん、こんにちは、今日はどうかなさいましたか」
「先日お話ししたとき、最後に、私は罪のことがよく分からないとお話ししました。そのことをA長老がどう受けとめられたのか、気になったのです。私が罪のことを全然分かっていない人間だという誤解をもたれたら嫌だなと思ったものですから、声をかけさせていただきましたの」
「そうですか。罪をどう理解するのか、自分の罪をどう考えているのか、人さまざまだと思いますし、お互いに罪のことを話すことはあまりありませんね。私はCさんから直接罪について聞くまで、Cさんの罪理解については判断はしないことにしていましたよ」
「そうですか。それでは今日は、罪について突っ込んだ話をしてもよろしいでしょうか」
「私で分かる範囲でならかまいませんよ」
「聖書が罪を重要な問題として語っていることを私は承知しています。私自身、罪があることも承知しています。何かあれば醜い思いが湧いてくることも自覚しています。罪がなぜ、重大な問題なのか、今ひとつ分からないのです」
「罪の重大さですか」
「A長老に最初にお話ししたとき、説教で聖なる者になりなさいと聞いて、それはちょっとむずかしいと思っていますとお話ししました」
「そうでしたね。Cさん自身は罪をどう理解しておられるのですか」
「神さまの教えに背くことが罪だと理解しています。教えに背けば罪を犯すことになると考えます。さらに行為に及ばなくても、悪しき思いが湧いてきます。他者を裁く思い、妬んだり嫉妬の思いなども罪だと思います」
「行為における罪、思いにおける罪、私たちは罪を犯さない人間にはなれませんね」
「おっしゃるとおりです。だから罪を犯す者は神さまの赦しを受けなければ最後の審判で裁かれると言われたら、イエス様を信じ、赦しをいただきたくなります。ですから私は洗礼を受けましたわ。でも、罪の問題って奥が深いような気がします。でもそれがよく分からないのです。罪を克服しなければ、聖なる人になれないと思いますし」
「まずは自分の罪を知ることについて。私は、人は二通りの仕方で自分の罪を知るのではないかと思います。一つは、神さまの導きによってガツーンと自分の罪を思い知らされます」
「ガツーンとですか。わたしにはそんな経験はありませんわ」
「そうですか。イスラエルの王ダビデが姦淫したという話しはご存じですか」
「はい、一応知っています」
「ダビデは正確に言えば、姦淫の罪と殺人の罪を犯しました。いずれも十戒にある戒めを破ったことになりますが、ダビデは自分の罪をどのように知ったかご存じですか」
「はい、家来のナタンがダビデに話をし、ダビデが語った言葉に対して、『あなたがその人だ』と言って、ダビデの罪を指摘しました」
「よくご存じですね。王という権力ある地位にいたダビデは、傲慢になっていて、自分が姦淫と殺人の罪を犯したとは思っていませんでした。しかし『あなたがその人だ』というナタンの言葉を聞いてというか、ナタンの言葉はまさにガツーンとダビデの心を刺したのです。私は何という罪を犯したのだ、とダビデは気づかされたのです。ダビデは自分の罪に気づかされたというか、自分の犯した罪に打ちのめされたといってもよいと思います」
「たしかにナタンと話をしなければ、ダビデは自分の罪に気づくことはなかったですね。つまり神さまによって自分の罪を思い知らされたということですか」
「そうなんです。自分の罪に打ちのめされた人は他にもいます」
「本当ですか」
「たとえばパウロ」
「あのパウロが?」
「はい、彼は信仰に熱心で、熱心さのあまりクリスチャンを捕らえて連行していました。彼は自分が神の前に正しいことをしていると思っていました。しかし復活したイエス様がパウロに語りかけました」
「ああそうですね。そしてパウロはイエス・キリストを宣べ伝える人に変えられたんですね」
「はいその通りです。パウロは自分のことを『罪人の頭(かしら)』と呼んでいます。Cさんも聖書の中で自分の罪に打ちのめされた人を知っているのでないですか」
「私が知っている人で自分の罪に打ちのめされた人ですか。誰だろう。ああ、そうです。ペトロですね。イエス様から『あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう』と言われました。そして『そんなことは決して言いません』と断言しました。しかし」
「そうです。ペトロは三度否定しましたね。そして激しく泣いたとあります。自分の罪に打ちのめされたのだと思います。Cさんはどのような経験がありますか」
「先ほども申し上げましたが、わたしにはそのような経験はありません。A長老はどうなのですか」
「私ですか。そうですね。私はある時、咄嗟に小さな嘘をついたことがあります。それは自分を守るための嘘です。後で、自分が嘘をついたことに気づき、ああなんて自分は罪深いのだろうと思ったことがあります」
「たった一つの小さな嘘なのに、そんな風に思われたのですか」
「自分のしたことの大きい小さいは関係ないんです。神さまの前で自分の罪を強烈に意識させられたんですね。自分をよく見せようなんていう気持ちは吹っ飛びました」
「貴重な体験をされたんですね」
「そうです。自分が神の前に生きる存在であることを強く意識させられました」
「そういう経験って信仰者に必要なんでしょうか」
「それはわたしには分かりません。ただ経験すれば、自分の信仰が変わるという面はあると思います。うちの先生はガツーンと罪を思い知らされ、それがきっかけで受洗したと話されたことがあります」
「そうですか」
「もう一つの罪の知り方は、説教や聖書で神のみ心を知り、自分がそれに背いていると知る知り方です。特にガツーンということはありません。冷静に自分の罪を知ります」。
「自分の罪をガツーンと知らされたり、冷静に自分の罪を知ることがあるというのですね」
「はい」
「今日は大切なお話を伺うことができました。ありがとうございます。でもまだ罪の重大性を理解したわけではないので、またお話しをさせてください。よろしくお願いします」
「分かりました。ではお元気で」
「さようなら」