クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

憐れみ深い人々

 主イエスは山上の説教の最初で「幸いな人」はどのような人かを教えています。

 今日は7節、「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」を思いめぐらしました。これはキリスト者に対する教えです。そして基本的に、自分は少しも憐れみ深い者ではないとのキリスト者の認識があります。キリスト者は「心の貧しい人々」で、神を思うこと少なく、自分のことしか考えない自分であるを知る人です。それゆえ、神の御心を大切に思い、また御心に従う歩みをしようとします。

 憐れみ深い人々は幸いとイエスが語るとき、キリスト者が憐れみ深い人になることができる理由が前提とされています。つまりキリスト者は神の憐れみを受けているので、他者に対して憐れみ深くなることができるという前提です。

 マタイ福音書18章にイエスが語られたたとえ、「仲間を赦さない家来」のたとえがあります。ペトロがイエスに「もし兄弟が私に対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」とたずねました。するとイエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と答えられ、それに続いてこのたとえを語られました。

 王に対して莫大の借金をしている家来が王から返済を求めました。「待ってください」と王に頼みます。莫大な借金です。「待ってください、返済します」と必死に語る彼のことを」王は憐れに思い、彼の借金を帳消しにしました。その家来が、わずかなお金を貸している仲間に出会ったとき、返済を求めました。仲間が「待ってください。返すから」と言っても聞かず、彼を獄に入れたというのです。そのことを知った王は、その家来に借金を全部返すように命じて王は言います。

「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。

 他者に対して憐れみ深くあることができるキリスト者は、神からの憐れみを受けたことを自覚しているキリスト者であると教えられます。逆にキリスト者でも他者に憐れみ深くなれない人は、実際には神の憐れみを知らないのです。神の憐れみ、それは私たちの罪を赦すことにあります。

 この話は私たちをドキッとさせます。あなたに赦せない人がいるなら、あなたは神の赦しを知らないのだと語りかけるからです。私も立ち止まらされました。

萬葉植物園