ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
イエス様がザアカイの家に入ったことを見てつぶやいた人たちがいます。彼らは神を信じています。神さまは罪深い者をどう見ていると彼らは考えているのでしょうか。神さまは罪深い者は顧みるに値しないと考えているのでしょうか。彼ら自身は、罪深い者は顧みるに値しないと考えています。神さまは罪深い者を顧みる方であると考え、自分自身は罪深い者は顧みるに値しないと考えるのは一貫性に欠けます。ですから彼らは、神は罪深い者を顧みない神であると考えていたと推測します。
それに対してイエス様は、「人の子は失われた者を捜して救うために来た」と語り、神は罪深い者、失われた者を救う方であると教えられました。神さまをどう考えるか、イエス様とつぶやいた人たちの間には決定的な違いがあります。神をいかなる方と考えるのか、それは非常に大切なことです。神さまをどう考えるか、それによって他の人に対する私たちの見方、態度が変わってくるのです。
神さまがいかなる方か、それを知って喜ぶことができるかどうか、課題です。イエス様に対してつぶやいた人たちは、神さまが罪深い者を顧みる方であるという考えを認めることができないかもしれません。すると彼らが信じている神は、聖書が証しをする神とは別の神となります。彼らの信じている神は偶像となります。
信仰者で人を赦せないで悩んでいる人がいます。その人は、神さまはどういう方であると考えているのでしょうか。神さまは人を赦す神であることを知っていますから、赦せないことで悩むのでしょう。事の本質は簡単です。赦さない、それは罪だということです。赦しなさい、それが神さまの御心です。赦さない罪を認めたくなくて自分は悩んでいると言い、実は赦せない、赦したくない自分を正当化しているのではないかと私は思います。神さまはなぜ赦しなさいと命じられたのか、神さまがいかなる方か、それを知って喜ぶことができるかどうか、課題です。
クリスマスの礼拝説教の録音をサイトにアップしました。是非、聞いてください。