クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

罪からの解放・自由(3)

 誘惑に負けるという罪があります。お金、性的なこと、そして名誉に対する願望は誘惑の最たるものではないかと思います。牧師も人間、この誘惑から逃れることはできません。

 私たちは納税義務を負っています。臨時収入が一定の額を越えると確定申告をしなければなりません。すると節税というようなことを考えるのです。節税を考えること自体は悪いことではありませんが、納める税金を少なくしたいとの思いが湧いてきます。わずかな税金を惜しむのです。このような思いが湧いてくることが残念です。ないつもりでもあるのがお金に対する執着です。

 イエス様は教えられました。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」。イエス様は心の中の思いを問題にされました。一般的には、具体的な行動にならなければ、問題はないのです。心の中に抱く思いは、非難の対象ではありません。しかし心の中の思いを信仰は問題にします。人を裁くこと、羨むこと、憎むこと、赦さないこと、みな心の中にある思いです。それがやがて行動となって表れることがありますが、心の中にあるだけで私たちは悩み苦しみます。

 現代ほど性的情報が身近にある時代はないかもしれません。自分から近づかなくても、向こうからやってきます。今の時代、インターネットを使って色々なホームページを見ていると、端っこの方に性的関心をそそるようなサイトへの入り口を見ます。マウスでクリックすれば、そのサイトに行くことができます。しかも誰も見ていません。誘惑は向こうからやってきます。

 名誉欲。牧師として人に認められるような働きをしたいとも思い。私は時々「天才がうらやましい」などと独り言を言います。妻は聞いていますが。名誉欲めいたものが心の中に湧いてきたときは、大切なことは神さまに謙遜に仕えることと自分に言い聞かせます。

 お金、性的なこと、名誉欲。私たちは誘惑に囲まれています。人によって誘惑の内容は違うと思います。私たちは誘惑に負けまいと努力します。それは心の葛藤となります。そして誘惑に勝つことも負けることもあるのが私たちです。時には負けてもいいと誘惑に屈することもあります。人間的な努力では、誘惑からは解放されないのが現実です。

 私が本当に自由にされたのは、神さまの御心を大切にしたいと思うようになってからです。神さまを悲しませたくないと思うようになってからです。私を神の子としてくださった神さまに対して恥ずかしいことはしたくないとの思いを持つようになってからです。 

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空がとてもきれい 散歩道にて