クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.10.31)
聖書 ルカ 1:67〜80  私は主に仕える


 人はどんなきっかけで神を信じる決断をするのかな、と考えます。私自身は、教会に行き始めてから信仰の決断をするまで、時間がかかりました。数年かかったと思います。その間、教会に行かなかった時期もありました。なぜ時間がかかったのかというと二つ理由があります。一つは、罪ということがよくわからなかった。礼拝でいつも罪の話を聞くわけでもなく、罪がわからなかったのです。そして神の存在がわかりませんでした。


 今、私は神を伝える側に立っているわけですが、まだ神を信じるという決断をしていない方に、伝えたいと思うことがあります。私はもし神がいるなら、神がいることを私に示してほしいと神に願いました。何か不思議なこと、奇跡みたいなことが起きて、神はいるんだとわかれば信じることができると私は思っていました。しかし、そのようにして神の存在を信じると、逆に、神に行動してほしいと願っても、神が何にもしてくれないように思える時、逆に神はいないと思ってしまう可能性があります。


 神を信じるためには、神はいるのかいないのか、を考えるよりも、聖書は神をどんな存在と述べているのか、それを知るのがよいと思います。神がいるかいないかわからなくても、聖書は、神はこういう存在だと教えていることを受けとめ、そういう神なら信じてみたいと思うか、思わないか、考えるのです。信じてみたいと思ったら、神に祈るのです。「神さま、あなたを信じたいです。信仰に導いてください」。昔の自分にこのことを伝えることができたら、もっと早く神さまを信じることができたのではないか、と思います。


 今日は、ルカ福音書の1章73〜75節を取り上げます。

「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える。生涯、主の前に清く正しく」

とあります。これは、これから登場する救い主を信じたら、信じた人がどうなるかを述べたものです。その人は、主に仕える人となるというのです。このことをきちんと教えられたいと思いました。


 これから登場する救い主を信じたら、その人は主に仕える人になるというのです。78〜79節では、「光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」とあります。光に照らされると私たちは、明るい世界に生きることができるようになります。それは、神に仕えて生きることになるのだと聖書は語っています。神に仕えるとはどういうことなのでしょうか。


 聖書を読む時、注意すべきことがあります。たとえば、鉱山で金を発掘しようとしています。きっと金が見つかると信じて掘っていくわけですが、なかなか見つからない。そしてついに、ここには金脈はない、とあきらめるのです。しかし、あと1m掘れば見つかったのにということが理屈の上では考えられます。それと同じように、聖書を読むとき、当たり前と思えることをあと少し、突っ込んで考える、きちんと考えると、私たちの信仰が深められる、そういうことがあるのです。


 それは何かというと、神は心を持つ方、人格的な方であるということです。このザカリアの賛歌の中でも、たとえば、「主はその民を訪れて」とあります。神は行動する方なのです。イスラエルの民を訪問するのです。69節では、救いの角を起こされるのです。力強い救い主を誕生させるというのです。72節では、神は、イスラエルの先祖を憐れんだとあります。旧約聖書では、神は人々に語りかけています。神は戒めを与えています。信仰者がいかに生きたらよいのか、神は戒めを与えているのです。


 神には心があり、人格があるのです。神というのは、宇宙を支配する法則のようなものではないし、草や木、動物や岩に宿るものでもないのです。我々人間は神に似せて造られたと聖書は言います。神が人格を持つ方なので、人間も人格を持ち、心を持つのです。


 聖書、特に旧約聖書は、イスラエルの歴史を通して、いろいろな物語を通して、神がいかなる方であるかを私たちに教えています。私たちは聖書を読むとき、神がいかなる方であるかを読み取ることは大切です。創世記に出てくるアブラハムは、75歳の時に神と出会い、100歳の時に子供を授かります。妻は九十歳で、子供が生まれるはずのない夫婦に神は子を授け、全能の神であること示しました。アブラハムという人物は、神が全能であることを伝えるために生きた人物に思えます。聖書は神がいかなる方かをいろいろな形で印象的に伝えています。それを読み取るだけでも聖書を読むことは楽しいです。


 神が人格的な方、心をもっておられる方だということは、当たり前に見えますが、決して当たり前ではありません。神が心を持っていると知ることは、本当に大切です。たとえば、神の戒め一つ取り上げたとき、神はなぜ、その戒めを我々に与えたのか、と考えることを私たちはなかなかしないのではないでしょうか。私たちの心には、防衛的な思いが湧いてきて「その戒めを守るのはむずかしいです」と言ったりします。実行できない自分、実行したくない自分が責められるのを嫌って「無理です。むずかしいです」と予防線を張ったりします。神の心を考えないのです。自分の心しかみないのです。親が子供をしかるとき、なぜしかるのか、子供にわかってほしいと思います。子供を持って知る親の恩とありますが、親の気持ちがわかるようになるわけです。私たちは神にはなれないので、今、神の心を大切に考えるようにしたいのです。


 祈るときでも、神さま、あれをしてください、これをしてください、それをしてください、と願い事だけを並べて、アーメン、と祈りを終えたりすることがあります。もしあなたの知り合いが、あなたに物を言うとき、いつも、頼み事しかいわないとしたら、その人とつきあうのはいやになりますね。自分の要求を突きつけるだけでは、人と人とのつきあい、人間関係は成立していません。


 だから、神さまは心をもっておられる方、人格的な方であることを知って、神とつきあうことが大切となってきます。神は私たちの願い事を聞いてくれる自動販売機のような存在ではありません。ですから、聖書を読んで、あるいは礼拝説教を通して、神がいかなる方かを知り、そういう神と関わって生きていこうとする、それが信仰だと考えてください。神の存在を信じるのが信仰ではなく、神とつきあう、それが聖書の教える信仰です。


 私たちの生活で、私たちが他の人の心を考えなかったら、どうなるでしょうか。もし、夫の心を全然考えない、妻の心を全然考えない、子供の心を全然考えない、もしそうだとしたら、夫婦関係、親子関係は成り立たなくなると思います。ですから、信仰を考えるとき、神の心を考えなかったら、神との関係は成立しなくなり、結果的にまことの信仰生活が成り立たなくなると言ってよいのではないでしょうか。信じているつもりの信仰生活になってしまわないでしょうか。


 私たちは様々な人間関係の中に生きています。相手を重んじて接することが必要となります。相手を軽んじるような態度をとれば、人間関係は壊れてしまいます。


 今日の聖書には、神は憐れみ深いと書かれています。人間は力が弱く、罪を犯し、一人では生きていけないので、神は憐れんでくださるのです。人間を憐れむ、これは人間に対して神の関わり方です。神は人間に対して怒るときもありますが、忍耐もされる方です。人間に対して恵みをもって接してくださるし、祝福してくださる方です。神は人間を愛し、人間に関わってくださいます。そして人間もまた神の心を大切に考えて、行動することによって、神とのよい関係を保つことができます。


 罪を犯したときには、赦しを求めます。願い事があれば祈ります。神の教えには従います。神に信頼します。神を敬います。神を神とするとは、神の心を重んじることです。それが信仰に生きることです。そして信仰者は、神が、私たちを大切に考えて私たちに関わってくださることを信じ、また期待します。神は気まぐれな方ではありません。一貫性を持ち、責任と愛をもって私たちに関わってくださる方です。


 そして「主に仕える」と今日の聖書にあります。神に対して「仕える」、これは私たちが神に対してとる一つの態度であり、信仰者の神に対する素晴らしいあり方、行動と言ってよいのです。信仰者の生き方そのものと言ってよいでしょう。


 もしあなたが神さまの心をあまり考えていないままに信仰生活を送っているとしたら、あなたは人間関係においても、他の人の心を十分考えていない可能性があるのではないでしょうか。もし、あなたが他の人の心を十分考え重んじているなら、神さまの心を考えることは難しくはないので、是非、考えてほしいと思います。

 新約聖書には、「仕える」と訳されるギリシャ語が複数あります。しもべとして主に「仕える」という意味のギリシャ語があります。ここで用いられているのは別な言葉で、神に対して義務を果たす、という意味です。これは神さまに対して奉仕をするという意味の「仕える」です。たとえば、エルサレム神殿で、祭司がいけにえをささげるなど、宗教的な働きをすることを意味しています。


 新約聖書を読むと、この「仕える」ことの内容に変化が生じます。たとえば、ローマ1:9でパウロは、

「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています」

と述べています。「福音を宣べ伝えながら神に仕えている」。つまり伝道は、神に仕える働きであるとパウロは述べているのです。パウロは、キリストを宣べ伝える使命を与えられました。ですから、神から与えられた使命を果たすことは神に仕えることなのです。


 教会の中で必要とされる働きをすること、これも神に仕えることです。教会の中だけでなく、私たちの生活の中でも、私たちは神に仕えます。ローマ12:1でパウロは、

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です」

と述べています。ここでは「礼拝」と訳されていますが、ルカ福音書のこの箇所の「仕える」というギリシャ語が使われています。自分の体を神に献げるとは、自分の生活を神に献げることを意味します。私たちの生活は、神への捧げものだというのです。献身の生活、それが神に仕えることだというのです。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:7-8)。

 主のために生きる、これが神に仕えることです。神に仕えるとは、自分の時間を割いて、神のためのご用をすると考えるのは、狭い考えです。そう考えると、神に仕えることは自分の生活を犠牲にすることと考えてしまいます。そうではありません。神に仕えるという視点で人生を見るとき、信仰の人生が開けてくるのです。人生の見え方が違ってくるのです。自分のことしか考えない人生は、本当の人生ではありません。終わりの日、神の裁きに耐えることができないのです。


 信仰とは、神が生ける神であることを知り、神の心を大切にすることです。そして神に対して、ふさわしい関わりをして生きること、それが信仰です。いうまでもなく、神は私たちの心を大切にし、神としてふさわしい関わり方を私たちにしてくださいます。私たちはそれに答えて生きていくのです。それが神に仕えることです。


 昔、イスラエルの人々は、エジプトで奴隷として苦しい生活をしていました。神の救いを得て、自由に生きることのできる土地に到着したとき、モーセの後継者のヨシュアは言いました。

「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア記24:14)。

宗教改革者のルターは、あなたがいちばん大事にしているもの、それがあなたの神だ、といいました。ヨシュアにならって私も言います。

「あなたたちは神に仕えなさい。もし神に仕えたくないなら、あなたがいちばん大事にしているものを神として選び、これに仕えなさい。しかし私と私の家は主に仕えます」。

祈り
天の父なる神様、イエス・キリストを十字架に渡し、私たちを救いに導いてくださったあなたを心から賛美します。私たちを救い、あなたに仕えるものとしてくださった恵みを覚え、あなたをたたえます。あなたに仕えることの大切さ、そこに喜びと平安がみちあふれていることを私たちに教えてください。
私たちはつい、あなた以外のものを第一にしてしまい、偶像を作り、それに仕えてしまいます。その過ちに気づかせ、悔い改め、まことの神様に仕えるものとしてください。イエス・キリストのみ名により祈ります。