クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

臨終を迎える人のための祈り

 昨日教会の葬儀がありました。教会の近くに住んでいる教会員ではなかったので、この方の住まいの近隣の教会を会場として葬儀が行われました。youtubeの配信があり、葬儀説教に聞き入りました。

 また週の初めには私が属している香柏会(隠退牧師の会)から隠退牧師の近況をまとめたプリントが届きました。隠退牧師といっても年齢は様々、健康状態も人それぞれ、誰と一緒に暮らしているのか、それも人それぞれでした。皆さん、日々どのように生きておられるのか書いておられました。何人もの方が聖書の学びをしていると書いておられるのが印象に残りました。

 それらを読みながら、皆さんの心の底には終わりの日を迎える複雑な思いがあるように感じました。もしかしたら私が自分の気持ちを投影して読んでいるからかもしれませんが。

 洗礼式とか結婚式の場合、その日の到来は楽しみです。そして亡くなる日は、天に召される日なので信仰者にとっては喜ばしい日です。信仰者だから喜ばしい日と受けとめることができます。神さまのもとに行くのですから。神さまにお会いすることができるのですから。その一方で慣れ親しんだこの世界から去るわけですから一抹の不安、寂しさがあります。こんな思いを抱きながら、そして死を越える希望を持ちながら、私を含め、信仰を持つ老人は生きているのではないかと思いました。

 昨日葬儀を行ったのは教会員のAさん。祈祷会ではAさんのために祈り続けました。その時、自分がもしAさんの立場だったらどんな祈りをして欲しいのかと考えました。自分が臨終の床についているのです。その時どんな祈りをして欲しいのか、です。

「天の父よ、Aさんは今、最期の時を迎えようとしています。あなたに召され、御国に迎えられ、イエス様とお会いする喜びが待っています。今Aさんをイエス様にお会いする楽しみ、喜びで満たしてください」。

 牧師として働いているとき、このような祈りを考えたことはありませんでした。自分が老いているから、考え得ることができたのだと思います。

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露に濡れた野菊