イエス・キリストによる救いを考えるために罪について確認をしたいと思います。イエス・キリストによる救いは罪からの救いです。罪を考えるとき大切なことがあります。
神さまが人間を創造されたとき、人間は神さまの目に良い存在でした。しかし現実の人間には一つ問題があります。それは人間の自然本性の腐敗です。神さまに創造された人間には自由が与えられています。神さまは私たちの自由を束縛なさいません。私たちは自由な存在です。しかし一つ問題があります。私たち人間の生まれながらの性質、これを自然本性と呼ぶと、この自然本性には腐敗という問題があります。
何が問題かというと、善を行うことにおいて、この自然本性は問題があります。つまり善を行うことができないという問題があります。人間は自由です。しかし善を行うことにおいて問題があるわけです。使徒パウロはローマ書7章でこう述べます。
7:18~20
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
使徒パウロはここで二つのことを述べています。私には善をなそうとする意志があるにもかかわらず、その善を実行できないという問題が私のうちにあることを語ります。そしてその原因は、私の中に住んでいる罪だと語ります。
神に造られた人間には自由が与えられています。それにもかかわらず、善を行おうと思っても行うことができない、望まない悪を行ってしまうという問題があります。使徒パウロは、その原因は、私の中に住んでいる罪と言います。
古代の教会の司教であり、神学者でもあったアウグスティヌスは、これを自然本性の腐敗と言います。人間のもって生まれた性質に腐敗があるというのです。私が親しんでいるハイデルベルク信仰問答は、「わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」と語ります。つまり行いたい善を行うことができないのは、自然本性の腐敗が原因だというのです。
でもそれは、神さまが人間を創造したときに失敗があったということではありません。聖書は、最初の人アダムが神さまに背いたことを書いています。アダムが罪を犯したことによって、自然本性が腐敗したと聖書は説明しています。
もしキリスト者が自分は何と罪深いのだろうと自分を責めるとき、自分の意志が弱くて自分が罪を犯してしまうこともありますが、それ以前に人間の自然的本性が腐敗していることを聖書が語っていることを知ることは大切だと思います。
しかし実際に、行いたい善を行わないのは、自分の意志の決断ですから、自然的本性が腐敗しているからと責任転嫁をすることはできません。私たちが罪を犯すとき、私たちは自分の意志によって善を行わず、望まない悪を行います。だから犯した罪の責任が問われます。そこで聖書は、人間は罪の奴隷であるとも指摘しています。
うれしいことに聖書は、この自然的本性の腐敗からのイエス・キリストによる救いを語っています。