クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

キリスト者は決断をして生きる

 神の教えに従って生きようとするキリスト者の心は戦場です。キリスト者である「私」は聖霊の導きにより神の教えに従おうとします。善を行おうとします。しかし「罪」は肉を通して働きかけ、肉に従うように「私」を攻撃します。「罪」は私に対して、神の教えに反発を感じさせ、逆らうように働きかけます。そして「私」は敗北します。わたしはなんとみじめな人間なのでしょうと告白します。これは誠実なキリスト者の深刻な告白です。

 私の心は戦場なのです。聖霊の導きによって神の教えに従おうとします。しかし私たちに罪を犯させようとする勢力・力としての「罪」が肉を通してわたしに働きかけます。どちらが勝つのか、これは戦いです。キリスト者がこの戦いに直面すると最初は負けることが多いのです。

 ここで疑問が生じます。聖霊に導かれて神の教えに従おうとするのに、なぜ「罪」の力に負けてしまうのですか。聖霊に導かれるなら、「罪」の力に打ち勝って神の教えに従うことができるのではないですか。なぜ負けるのですか。

 「罪」が肉を通して私に働きかけるなら、私が罪を犯したとして、なぜこの罪を私は責められるのでしょうか。罪を犯した責任が私にあるのでしょうか。それは「罪」のせいではないでしょうか。

 かつて私は牧師をしている時、ひとりの姉妹から電話で相談を受けました。全く知らない人ですが、助けを求められました。彼女を窮地に追い込んだ人がいます。法に触れることをしているのかどうか、分かりません。私はこの人のところへ行き、話し合いをし、彼女を助けることが求められました。人を食い物にするような人です。どんな人か分かりませんが、まともに話をして何とかなるとは思えません。私は強い恐れを覚えました。

 助けを求められたから何とかしなければならないという責任感。困っている人を見過ごしにはできません。隣人を愛するなら、助けるべく行動を起こすべきです。しかし相手は、どんな人か分かりませんし、まともな人とは思えません。話し合ってうまく行くとも限らないし、自分は話しが下手だし、相手から何されるか分からないし、無力感、恐れに捕らわれました。心の中は戦いです。

 困っている人を助けたいとの思い、これは聖霊の導きです。聖霊の導きであれば逃げることはできません。一方、私の弱さを通して恐れが私の心を支配します。

 どう行動するのか、それは私が自分で選択します。聖霊は私を強制することはしません。わたしに働きかけ、私を導こうとします。最終的にどう行動するかは私の決断です。「罪」は、私に恐れを与え、やめろと働きかけます。おまえの力では何にもできないと無力感が私の心に侵入してきます。しかし「罪」もまた私を強制して私を力づくで従わせることはしません。恐れ、無力感をもって働きかけるだけです。自分が可愛いだろう、自分を大切にしろ。

 どう行動するか、それは私の決断です。私は彼女を助けるために行動しました。結果的には何の助けにもなりませんでした。でも心の中の戦いに一つの選択をし決断をしました。

 聖霊なる神は助け主です。神の教えに従うように導きます。聖霊の真の助け、聖霊の力は私が一歩を踏み出してから与えられます。神の教えに本気で従うことを示した時、聖霊の助けが与えられると私は信じます。そしてここから、心の中の戦いに勝利する道が開かれます。

 キリスト者が犯す罪とは、「罪」の働きかけに負けることだと考えます。負けることを自分に許してしまうことが罪を犯すことだと私は考えています。悪いと分かっていてその悪いことをしてしまう、これがキリスト者の罪です。
 

 

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