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隠退牧師 holala によるブログ

 マタイ 16:21〜28 苦しみを受け

本日のメッセージ(2009.5.17)
聖書 マタイ 16:21〜28 苦しみを受け


 目に見えないもので大切なものってありますね。空気。見えませんけど、空気がなければ私たちは生きていけません。宇宙は真空ですから、宇宙に出るときには、宇宙船という空気を確保した環境が必要となります。


 神もまた見えませんが、大切な存在です。神のおかげで、私たちは命を与えられ、今生きることができているのです。生かされているのです。もし創造主なる神を認めないなら、私たちは偶然の存在、いてもいなくてもどちらでもかまわない存在になってしまいます。聖書が告げる神は創造主で、「あなたは価高く貴い」と呼びかけて下さる方です。


 イエスは苦しみを受けた方です。十字架の死においてその苦しみは頂点に達しました。イエスは何のために苦しまれたのでしょうか。それは、私たちを神のもとに導くためでした。

1.イエスは自分が苦しむべきことをどのようにして知ったのか 


 主イエスは自分が苦しを受け、殺されることを知っていました。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)。


「この時」とは、イエスの弟子たちがイエスのことを、メシア、生ける神の子と告白したときです。


 弟子たちは、いつもイエスと行動を共にし、イエスの奇跡を目の当たりにしました。病人を癒します。舟が強い風で転覆しそうなとき、荒れている湖をしずめます。またイエスの教えを聞いていました。素晴らしい教えで、こんな教えは聞いたことがない、権威ある教えだと人々が驚嘆するような教えでした。


 一体この方はどういう人なのだろうという思いが弟子たちの中に生まれます。イエスが、「あなたたちは私をどう思うか」と尋ねたとき、ペトロが答えました。

「あなたはメシア救い主です。あなたは神の子です」。

 この告白を聞いてイエスは言うのです。「多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」と。


 イエスは自分が苦しみを受け殺されることを知っていたのです。どのようにして知ったのでしょうか。理由は二つあると思います。


 まずイエスは聖書をよく知っていたからです。この場合の聖書とは、旧約聖書のことです。イエスはよく、「聖書にこう書いてあるのを知らないのか」と論争の時に聖書を引用しています。あるいは、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43)と、旧約聖書を引用し、その教えが不十分であることを伝え、自分の教えを語ることもありました。イエスは聖書をよく知っていたのです。


 第二の理由は天からの声です。イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。洗礼を受けたその時、天から声が聞こえてきました。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)。


 これは旧約聖書イザヤ書にある言葉です。これは「苦難のしもべの歌」と呼ばれる部分にある言葉です。イザヤ書の苦難のしもべの歌の中の53章は、十字架の場面を思い起こさせる内容です。この天からの声を聞き、イザヤ書53章を読むなら、メシアである自分は苦しむことになるとイエスは考えることができます。


 そこにメシア・救い主の姿が描かれていると考えたイエスは、自分が苦しみを受け、殺されることを知ることができたのです。


2.イエスの苦しみとは何か 


 「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて」とありますが、どんな苦しみをイエスは味わったのでしょうか。


 一つは侮辱され、辱められるというる苦しみです。長老、祭司長、律法学者たちは裁判では嘘の証言者を立てました。さらに、十字架につけられたイエスに向かって「他人は救ったのに自分は救えない」(マタイ27:42)と侮辱しました。


 また見捨てられる苦しみを味わいました。イエスはまず、ユダヤ人に対して救いをもたらそうとしました。しかし、宗教上の指導者たちから、排斥され、殺されることになりました。何と言うことでしょう。信仰のことを一番知っているはずの人たちから、認められず、逆に、殺されます。


 十字架につけられての物理的痛み、苦しみがあります。手や足が、釘で十字架に打ち付けられるのです。言葉では言い表せない痛み、苦しみです。さらに神に見捨てられる苦しみがあります。十字架上でイエスは叫びます。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」(マタイ27:46)。

 これは悲痛な叫びです。神に見捨てられる苦しみ、それがどんなものか、私には想像できません。今、私は神様なしに生きることを想像することはできません。神なしに生きる、それがどんなに不安で、頼りなく、空しく、喜びや感謝からほど遠く、生きている心地さえしないものであるか、と感じています。


エスは様々な苦しみを味わったのです。


3.イエスの苦しみの目的 


 では、イエスは何のために苦しみを受け、十字架につけられて死んだのでしょうか。

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」(ペトロ一3:18)。

 罪のために苦しんだと行っても、自分の罪のために苦しんだのではありません。人々の罪のために苦しんだのです。

  • 私たちを神のもとへ導くために、イエス・キリストは苦しみを体験されたのです。
  • 私たちを神のもとへ導くために、苦しみ、命を投げ出されたのです。
  • エスのおかげで、私たちは神のもとに導かれることができます。
  • あなたを神に導くために、イエスは苦しみを受けられ殺されたのです。


 世の中には色々な信仰があります。聖書が告げる以外の神を信じる人々もいます。私たちは唯一の神しかいないと考えますが、別な神を信じる人々もいます。イエスはどんな神のもとに私たちを導くのでしょうか。


エスのおかげで近づくことのできる神、それは、

  • 私たちの罪を赦す神です。罪人である私たちを赦して下さる神、この神のもとへイエスは導いて下さいます。
  • エスが導いて下さる神は、罪人である私たちを愛し、私たちのことを価高く貴い存在と見て下さる神です。
  • エスが導いて下さる神、それは私はあなたと共にいると呼びかけて下さる神です。


 そもそも罪とは何でしょうか。悪いことをすることでしょうか。違います。「罪とは何か」と罪の本質を問われるなら、答は、

「神を認めないこと、神を信じないこと」です。

 聖書が告げる神は、世界を創造した神です。私たち人間に命を与え、私たちを生かす神です。この神を認めないこと、それが罪です。神が命を与えるのは、愛しているからです。自分が今存在しているのは、神のおかげと認めないことが罪です。

  • 私たちが悪いことをした時に、良心の咎めを受けるのは、そのように造られたからです。
  • また神を認めないとき、悪い行動が生まれてきます。それを「罪を犯す」と言います。罪は神を認めないこと、神を信じないことです。


 もしあなたの子供が、あなたを親と認めず、あなたの言うことに従わないとしたら、あなたはどう思いますか。あなたは子供を愛し、愛を注いで子供を養い育てています。それなのに、子供があなたを親と認めず、敬わず、あなたを無視して生きているとしたら、どう思いますか。さらに、その子が悪いことをしているとしたら、どう思いますか。


 聖書には放蕩息子の物語があります。ある農夫に二人の息子がいます。そのうちの一人が、父親に、自分が相続する財産が欲しいと願います。父親がまだ生きているのに!そして、財産をもらうと父のもとを去るのです。父なしに生きようとするのです。父を認めず、父を離れて生きるのです。


  聖書はこの息子のことを放蕩息子と呼びます。これは、神から命を与えられながら、神を認めずに生きる人のたとえです。彼は落ちぶれ行き詰まり、家に戻ってきた息子をその父親は喜んで迎えます。父親は言います。「いなくなっていたのに見つかった、死んでいたのに生き返った」と言って歓迎の宴を催します。


 放蕩息子は行き詰まる中で悟り、父のもとに帰りました。イエスは、私たちを神のもとへ導くために、苦しみを受けられたのです。イエスは、あなたを神のもとへ導くために、苦しみを受けられたのです。


祈り

 天の父、私たちを造り、あなたが、私たちの父として、私たちを守り、養い、導かれる神様であることを感謝します。
 私たちは迷える羊です。自分でよいと思う方に歩き、迷っているのです。主イエスが私たちをあなたのもとに導いて下さいます。感謝します。

神様を信じ、神様と共に歩む幸いに生きることができますように。
神様との交わりの中で日々歩む幸いへ導いて下さい。
神様が与えて下さった命、大切に用いることができますように。
世の光、地の塩としての歩みを導いて下さい。
神様を敬い、崇めて歩むものとして下さい。
あなたを信じていない人たちを信仰へと導いて下さい。
すでに信じている者たちは、あなたが励まして下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。