クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

赦すということ


↑ 大嵐山から見た白山 2009.5.12


、『赦し〜新しい人間関係を生み出す』(デビッド・アウグスバーガー著)を読んでいる。イエスが教えた赦しがテーマ。赦すということはどういうことかを教えてくれる。

 僕はかつてある人から強く責められたことがある。その人は僕を責めた後、メールで

「言い過ぎました」

と謝ってきた。僕は、正確に何と言ったのか、もう覚えていないが、

「わかりました」「きにしていませんから」

 というようなことを言ったと思う。彼の謝罪を受け入れ、赦したのである。彼はまもなく、また僕を責め、また「言い過ぎた」と謝ってきたのである。

謝ったのになぜ繰り返すのだろう? 

 そして今思う。相手が謝ってきた時、「赦します」と答えても、実は赦しになっていないのである。相手に対しては赦しを伝えているかもしれないが、和解つまり人間関係の回復はできていないのである。僕の場合、その後、彼を恐れる思いがずっと残った。彼から電話がかかってくると、ドキッとした。


 赦すためには、相手が謝ってきた時、相手の行為によって自分がどんな気持ちになったのか、を伝える必要がある。それを聞いて、「本当にすまなかった」と相手が思う時、相手の中に悔い改めが起きるのである。「自分は言い過ぎた。悪かった」は、本当の意味では悔い改めになっていない。だから繰り返すのだ。自分の行動が、相手にいやな思い、悲しい思いを与えたということを知る時、二度と繰り返すまい、という悔い改めが起きる。自分の気持ちを伝えた上で相手が悔い改める時、心の傷が癒される。自分の気持ちを伝えないで、「赦します」と言うのは、実は不十分なのである。相手に対しては、赦しを与えるよい人間になるかもしれないが、自分の心の傷は癒されない。自分の辛い気持ちを相手が理解して悔い改める時、癒しが来る。


 そう考えていたら、ふと気づいた。我々が神の前に悔い改める時、神がどんな思でいるのかを考えることが必要だ、と。我々が罪を犯した時、神にどんな悲しい思いをさせたのかを考えるべきだ。考えないから、同じ罪を繰り返すのではないか。


↑ 大嵐山に咲くオオバキスミレ