クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスマスの恵みを考える(2)

 前回たとえを話しました。たとえの中で、父は私にアリになり、アリの世界に行き、アリを救うように話しました。その時、私がアリを救うために死ぬとも父は語りました。

 私 holala は父からそのように言われたらどうするか。もちろん拒否します。アリを救うためにアリになるという。なぜ私がアリを救わなければならないのか。私がアリになって地べたを歩き回るなんて、いやだ。働くだけの生活なんて耐えられない。しかもアリを救うために私が死ななければならない!何で私が命を犠牲にしなければならないのか。全然納得できない。アリの世界を救えば、感謝され、崇められるかも知れない。でもそんなこと holala は望んでいない。

 つまりここで問題なのはプライドです。人間である自分がアリになるなんて、考えられないのです。アリになるなんて自分のプライドが許さないのです。スーパーマンになってこの世界から悪をなくし、この世界を救うというのなら、スーパーマンになってもよいと思います。小さくて、踏まれたら死んでしまい、いつもちょこちょこ歩いているだけのアリ。アリになるなんて惨め。こう考えるのはプライドです。

 もう一つ納得できないことがあります。それは父です。なぜ私にアリになってと命じるのかです。なぜ私なのか。しかも死ぬのです。わが子に死ねと命じているようなものです。何か素晴らしい大義名分のためなら受け入れることができるかもしれません。でもそんな命令を子に与える親なんてどこにいるのでしょうか。子を本当に愛しているのでしょうか。子どもに死ぬことを命じることができる理由なんてあるのでしょうか。父に対する不信感を抱きます。父は全能なのです。もっと他にいい手段を見つけることができるはずではないかと思います。

 しかし、です。イエス・キリストはどうしたのでしょうか。

フィリピ2:6~7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わなかったというのです。自分は神であるというプライドにこだわらなかったのです。かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 キリストは holala とは違い、プライドにこだわらず、自分を無にして人間と同じ者、人間になられたのです。

フィリピ 2:8
へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 しかも死に至るまで、それも十字架の死に至るまで父に従順でした。holala はアリのために死ぬなんて、そんなことできるわけがないと拒否したのに、キリストは十字架の死に至るまで従順でした。信じら~れ~ない!

 でも holala さん、あなたはキリストを信じているんでしょ。信じられないと言っていいの?

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マンリョウの実