クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

身代わりという考えは妥当か?

 イエス・キリストは十字架の上で、罪に対する神の怒り、罰を受けるべき私たちの代わりに神の怒り、神からの罰を受けられたと聖書は語ります。このことを信じる者は、神の怒りを受けることなく、罰を受けることなく、罪の赦しを得、永遠の命を得ると教えられます。

 ところで私たちは犯罪者の身代わりになって罰を受けることができるでしょうか。彼の身代わりになって刑務所で服役するのです。犯罪者の身代わりになるという考えは適切な考えなのでしょうか。

 私たちの社会では、法を犯す人は罰を受けることになっています。社会の秩序を保つためです。そして法を犯した人が罪の償いをするのが当然と誰もが考えます。そこでもし誰かが自分が身代わりになるといっても許されません。人は自分のしたことに対して責任を持つべきであると人は考えるからです

 もし親が子の身代わりに、子が親の身代わりになることが許されたらどうでしょうか。身代わりに刑に服するのです。それは肉親への愛と呼ぶことができるのでしょうか。私は愛と呼ぶのはいかがなものかと思います。人が人間らしく生きるためには自分の過ちは悔い改めることが必要だと思うからです。そして悔い改めのしるしは罰を受けることだ考えるからです。

 さて、イエス・キリストが私たちの身代わりになって罰を受けたと聖書は語ります。イエス・キリストは罪人を愛し、罪人の身代わりとなって神からの罰を受けて下さいましたと聞いて、人はどう思うのでしょうか。

 これは不健康な教え、不道徳な教えではないか、と多くの人は言うかも知れません。なぜなら人は自分の過ちに対して責任を負うべきである、と考えるからです。もっともです。身代わりの思想は、甘やかすことにつながるのではないか、との批判も出てくると思います。これももっともです。

 身代わりなどとおかしなことは言わないで、「神が愛なら、私は罪を犯しました。許してくださいと人が祈るなら、神は赦してあげればよいではないか」との意見も出てくると思います。分かりやすいですし、それなりに説得力があります。

 そうするとイエス・キリストが私たちのために身代わりになってくださったとする聖書のメッセージはうさんくさいものになってしまうのでしょうか。

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 神が独り子を与えたとは、言い換えるとイエス・キリストが十字架に死ぬことは神の計画の中にあったということです。そしてそれは罪を犯す者たちへの身代わりであったということです。そしてここに人間の思いを越えた神の愛があると聖書は語ります。神は人を愛したから、御子を身代わりにされました。

 犯罪を犯した者は自ら罪の償いをすべきであるというのは、もっともなことですが、そこには犯罪者への愛はありません。社会の秩序を守るための法制度の維持に重点が置かれていると思います。

 世間の理屈からすれば、身代わりに罰を受けるというのはおかしく見えますが、身代わりは神の愛の現れです。そのことを示すにはさらなる言葉が必要となります。

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