今日は、ルカ 9:43~45、18:31~34 を黙想しました。
ルカ 9:43~45
イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。
この二つの段落で、2回目、3回目の受難予告が書かれています。どちらにおいてもイエスの言葉の意味が隠されていたので、弟子たちは理解できなかったと書かれています。
イエスが受難について語られたことは、弟子たちには寝耳に水であり、その意味は分からないのは当然です。何よりもイエスご自身が説明していません。しかしルカは弟子たちには受難の意味が隠されていたと書きます。
隠されたからには、明らかにされる時が来ることが予想されます。復活後、エマオ途上の弟子たちに、イエスは聖書全体から、ご自分について書かれていることを説明したと書かれています。
使徒言行録には、ペトロがイエス・キリストは救い主であること、罪の赦しを受けるように人々に勧めたことが書かれています。13章にはパウロの説教が書かれています。パウロは信じる者は義とされると語っています。
初代の信者は、旧約聖書をもとに、聖霊の導きを得て、キリストの死が罪の贖いのための死であったことを理解するようになったと思われます。
私たちも聖霊の導きによりイエス・キリストを信じ、その贖いの死を信じました。信じるには聖霊の導きが必要です。この世の人には、十字架で死んだ人が救い主だなんて愚かな話しに見えることでしょう。
私たちは聖霊の導きを受けて、イエスがキリスト、救い主であることを信じました。キリストが私たちのために死なれ、救いの御業をなさってくださったとするなら、キリストによる救いとは何か、明確に信じることが大切となります。しかもその救いは、神がその独り子を犠牲にしたことによる救いです。
キリスト者ならだれでも救いの恵みと言えば、罪の赦しをあげると思います。しかし聖書は、罪からの解放も救いの恵みとして語ります。
ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
キリスト者は信仰によって義と認められるだけではなく、霊に従って歩む時、律法の命じるところを行うようになります。
ローマ 8:4
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
多くの信仰者が救いと言えば罪の赦しだけを語るのを聞くとき、なぜ罪からの解放、律法を行う者となることが語られず、信じられていないのかと思います。キリストによる苦難の意味が、今なお隠されているのでしょうか。御子を犠牲にした神の救いです。