ルカ 9:21~22
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
長老、祭司長、律法学者たち、これらの人々は当時のイスラエルの支配階級、指導者的な立場の人たちです。しかもユダヤ教という信仰を背景とした勢力です。
主イエスは、信仰という点で彼らと対立し、特に律法学者たちを公然と偽善者と批判し、彼らの反感を招き、命を狙われることとなりました。
律法学者たち、彼らは神の律法(戒め)を教える立場にありました。教えを実践していると自負していました。主イエスから見ると彼らは、自分たちが敬虔な信仰者であることを装い、立派な信仰者であることを見せびらかしていたのです。主イエスの目に、彼らの信仰は、神が求める信仰ではありませんでした。
人は自分の信仰が神の御心にそった信仰になっているのか否か、吟味する必要があることを教えられます。人は自分を肯定したがるので自己吟味は簡単ではありません。一つの手がかりがあります。
コリント二 13:5
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
信仰を持っているかどうか吟味しなさい。厳しい教えです。さらにパウロは、あなたがたは自分自身のことがわからないのですかと問います。自分自身のことが分からないことが人間にはあります。この場合何が分からないのでしょうか。
キリストが自分の内におられることです。キリスト者なら、その人のうちにキリストがおられるとパウロは教えてきました。ガラテヤ書でも似たことを語ります。
ガラテヤ 2:19~20
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
パウロは、キリストがわたしのうちに生きておられると語ります。続けて、
わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
わたしは神の子に対する信仰に生きているとパウロは語ります。キリストがわたしのうちにおられるとの信仰に生きているのです。
私は、キリストが私のうちにおられると信じています。神の言葉が人となったのがイエス・キリストです。私は神の言葉を土台に物事を考え、生きるようにしています。そのような生き方ができるのはキリストが内におられるからと信じています。