昨日のブログで聖書が分かるうれしさについて語りました。その聖書箇所はロマ書7章の聖句です。
7:24
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
自分はみじめだと告白するのは誰なのかという追求は、底なし沼に踏み込むようなものだと思います。沼から出ることができなくなり、さらにはキリストによる救いが何であるかが見えなくなるように思います。
自分をみじめと告白するこの人は神の律法に従おうとしますが、現実には従うどころかその逆のことをしているという現実があります。
神の律法を行おうと努力するのですから、この人はキリスト者です。キリスト者でない人が神の律法を実践しようとは思いません。キリスト者でなく、神の律法を守ろうとする人はいます。ユダヤ教徒です。パウロはローマのキリスト者に手紙を書いているので、ユダヤ教徒のことは考えていないと思います。
キリスト者だから神の律法を行おうと努力します。でも実行できない自分、自分の無力さ、あるいは実行したくないと思う自分の頑なさに自分のみじめさを思うのです。自分に対して罪を犯した人を赦しなさいとの神の命令を人はどう思うのでしょうか。赦せない自分、許したくないと考える自分がいることに人は気づくに違いありません。
しかし、神の律法を喜んで行うキリスト者もいるのです。他者を赦すキリスト者もいます。すると未熟なキリスト者がこのようなみじめさを感じ、成熟するにおよんで、みじめさを感じなくなると考えることもできます。
あるいは、どんなキリスト者も罪との戦いはあります。どんなに成熟した信仰者にも、罪との戦いの中でこのようなみじめさを感じることがあると考えることもできます。
結局人は、自分の信仰に照らし合わせて、このみじめな人を解釈します。私自身は、信仰者は成長するので、あるところまで行けば、このみじめさを克服できるのではないかと考えてきました。
この沼に入るとパウロが伝えようとするキリストによる救いが見えなくなるのです。キリストによる救いについてパウロは何と言っているでしょうか。
ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。ローマ 6:17~18
しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
キリスト者というのは、律法の下にはいないし、罪から解放されている人のことです。ですから「私は何とみじめな人間なのでしょう」という告白をするはずがないのです。
7章の7~25節においてパウロは律法について語っているだけです。律法は聖なるもの、良いものですが、罪は律法を利用して人間に罪を犯させると語るだけです。神の律法に仕える人、律法の下にある人はみじめさを味わうだけとパウロは語っています。
私はこのように理解し、沼から抜け出て、パウロの教えを理解できたのではないかと喜びを与えられています。