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隠退牧師 holala によるブログ

プライドという罪

 創世記3章でアダムとエバは神からとって食べてはならないと命じられた木の実を食べてしまいました。彼らは自分たちが裸であることを知りました。そして神が近づいてくるのを知ると彼らは身を隠しました。神の戒めを破ったので、神の前に出ることができません。彼らは神に逆らうという罪、神の御心を軽んじる罪を犯しました。自分を神の上に置くという罪を犯しました。

 「どこにいるのか」と神は声をかけます。「恐ろしくなり、隠れています」と答えます。そして神は木の実を食べたのか、と問いかけます。するとアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べてしまいました」と答えます。

 アダムは自分の非を認めません。女が木の実を自分にくれたから食べたと責任を女のせいにします。そればかりか、その女は、あなたがわたしと共にいるようにされた女」と言い、暗に神にも責任があるかのような言い訳をしています。女は「蛇がだましてので食べてしまいました」と蛇に責任を転嫁しています。

 アダムも女も、自分が取って食べた罪を認めようとしません。自分は正しい、という思いが人間にはあり、自分は正しいとするプライドが人間にはあります。このプライドのゆえに、人は自分の過ちを素直に認めず人のせいにします。このプライドが争いを生み出し、戦いを生み出します。

 夫婦喧嘩、親子の喧嘩、いずれも自分が正しい、悪いのは相手だと主張します。ここに人間の罪、プライドが現れています。そしてこんな喧嘩、誰でもしていると言って、自分の罪を認める人はほとんどいません。しかし根本的な罪が明らかに現れています。人間のプライド、国家のプライド。権力者は決して自分の非を認めません。プライドこそ本質的な罪です。

 この罪からの救いのためにイエス・キリストがお生まれになりました。十字架の死を遂げられました。もうじきクリスマスですね。

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