クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

先日、説教奉仕を与えられました。その時の説教です。

新約聖書 コロサイ3:12〜17
説教 友だちを連れて行きたくなる教会
2018/2/25


→今日は○○教会伝道開始71周年の記念日と伺いました。
そのことを覚えて説教をしたいと考えました。
そして説教題を「友だちを連れて行きたくなる教会」としました。
ずいぶん前のことですが、妻の友人が、「今私が通っている教会は、
友だちを連れて行きたくなる教会なの」と言ったのです。
妻と友人は、もともと同じ教会に通っていましたが、
その時は、それぞれ別の教会に通っていました。
私は夏休みを利用して、その教会に行ってみました。
なぜ、その教会は、友だちを連れて行きたくなる教会なのか分かりました。
引き込まれる説教がなされていました。
もし説教で人が集まる教会を目指すなら、
すぐれた説教をする人を牧師として招けばよいと思います。


→しかし私は、友だちを連れて行きたくなる教会は、
そこに集う信仰者が魅力的な教会である、と考えます。
そこに集う信仰者がかもしだす雰囲気が魅力的な教会です。
こういう教会なら、友だちを連れて行きたくなると思える教会、
そういう教会を目指したいと思うのです。
それは教会員の皆さんの協力、努力によって築かれる教会です。
ではどんな教会が魅力的な教会なのか、
それは教会全体で考えるとよい課題です。
新しく迎える牧者と是非一緒に考えていただきたい課題です。
これは浜寺教会の目標、ビジョンとなります。
もちろん魅力的な教会は、聖書的である必要があります。
今日は、聖書が描く、魅力的な教会を紹介したいと思います。

→12節を読みます。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。
ここには命令があります。
「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。
そして、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と、その命令を実行する理由が書かれています。
「あなたがたは神に選ばれている、神に愛されている」ということについては、
私はそう信じている、と皆さんはおっしゃることと思います。
では、「あなたがたは聖なる者とされている」、これはどうでしょうか。
「そう信じている」と言われるでしょうか。
それとも、「いやいや私が聖なる者、とんでもない」と言われるのでしょうか。


→そこで質問です。
主イエスを信じる皆さんは、聖なる者とされているのでしょうか、されていないのでしょうか。
聖書は、聖なる者とされていると語りますが、
自分には聖なる者とされているとの実感がないから、
自分が聖なる者とされているとは思えない、と考える人も多いのではないでしょうか。
聖なる者とされているのか、そうでないのか、どちらが本当なのでしょうか。
どちらを本当とするか、それによって信仰者として歩む道が異なってきます。
つまり、実感ではなく、聖書が語ることを本当として歩む道と、
自分の実感に基づいて自分に正直に歩む道があります。
もし私たちが実感に基づいて考えるなら、信仰生活は不安定なものとなります。
辛いことや苦しいことが続いて、
神がいるとは思えないと考えるようになったら
どうなるのでしょうか。


→聖書が伝える信仰は、聖書が語ることを真理、本当とする信仰です。
聖書を神の言葉とし、その語るところを真理とする信仰です。
実感がないことを信じるのは困難に思えますが、
実は、実感は後からついてくるのです。
そもそも神の存在だって、実感があるから信じたわけではなく
まずは信じて、そして信仰生活をする中で、
神さまはおられる、と思わされる体験をするのではないでしょうか。


→そこで「聖なる者とされている」ことをどう理解するか、です。
「聖なる者とされる」とは、罪から清められた者とされることを意味します。
イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださり、
イエス・キリストを信じる人は罪が赦されると私たちは信じます。
さらに罪が赦されるだけではなく、罪から清められたと信じます。
でも注意してください。
「聖なる者とされた」と言っても、完璧に、完全に聖なる者とされて、
もう罪を犯さない人にされたという意味ではありません。
私たちは聖なる者、罪から清められたものですが、
時に罪を犯すことはあります。


→「聖なる者」とは、
まず、罪から清められた人です。
次に、罪から清められた者として生きることを志し、行動する人を意味します。
私たちは、失敗し、罪を繰り返すこともあります。
でもその時は、その罪の赦しを求めて、
今一度、罪から清められた者として生きることを志し、行動するのです。


→もし私たちが、「聖なる者」は、完璧に聖なる人にされることと考え、
現実の自分は聖なる者ではない、と考えるなら、信仰生活の向上は、終わります。
信仰の成長はストップします。
聖なる者として生きることをしなくなるからです。
私たちは信仰者です。何を信じるのでしょうか。
聖書が告げることが真理だと信じるのではないでしょうか。
そう言われてもすぐには信じられないことがあるかもしれません。
信仰は神さまの贈り物です。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。
これが私たちの祈りとなります。

→私たちは聖なる者とされたと信じるので、
「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」との命令に従います。
私たちはもともと「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を持っていません。
持っていないのです。
だから身につけなさいと聖書は語るのです。
身につけるためには、練習が必要です。
練習なしに身につけることはできません。
スポーツ選手は、努力して技術を身につけています。
そこで13節。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」と練習課題が示されます。
忍び合うとは、忍耐することですが、寛容になることです。
相手に責めるべき事があっても、憐れみの心で赦すのです。


→たとえば、教会ではいくつもの集会があり、
話し合いがなされることがよくあります。
たとえば、話し合いの中で誰かがあなたに、「あなたの意見は間違っている」などと発言したとします。
私たちは自分が正しいと考えて、つい相手が間違っていると言ってしまいます。
これは高慢な言葉です。
謙遜が身につけば、「あなたはそう考えるんですね。でも私はこう考えます」と語ります。
人は多様な考え方をすることを認めるのです。
逆に「あなたは間違っている」と言われたら、
「なにを〜」と反発するのではなく、
むしろ寛容になり、その高慢を赦し、
「謙遜な心をこの人に与えてください」と心の中で祈るのです。


→憐れみの心とは、罪を犯す人や間違いをする人は、この人はダメな人だと切り捨てるのではなく、
この人を何とかしてあげたいと願う心です。そこに祈りが生まれます。
神さまも、私たちのことをダメな人間だと切り捨てるのではなく、
救い主を送り、私たちを救い、私たちが愛の人となることを願っておられます。
慈愛とは、無条件で他者を大切な存在と受けとめ、大切にすることです。
柔和とは、おだやかな心を保つことです。


→「これらすべてに加えて愛を身につけなさい」とあります。
愛とは他者の心を大切にすることです。相手を思って行動することです。
教会員のために祈る、これは愛です。
教会は、愛を身につける訓練をするところです。
私たちは愛することを積み重ね、愛することを身につけていきます。
私たちが愛を身につけるのは、
自分がキリスト者としての品性を身につけるためというより、
互いに愛し合う教会を築くためです。
愛に満ちた教会、それは魅力的な教会です。

→15節。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」。


→「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」。これはどういうことでしょうか。
私たちは何か起きれば、不安になり、思い煩い、心が動揺する者ですが、心の平和を保ちなさいとの命令です。
可能なのでしょうか。
この手紙の2章6節を読みます。
「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」。
私たちがキリストに結ばれて歩むなら、私たちはキリストと共に歩むことになります。
キリストが共にいてくださるなら、私たちは平和です。
たとい外は嵐でも、私の心は平和です。
ですから、キリストに結ばれて歩め、そうすればあなた方の心にキリストの平和が宿ると私たちは励まされます。
讃美歌500番に「やすし、やすし、神によりてやすし」とあります。


→今日の聖書は、さらに「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」とあります。
「一つの体」とあります。
私たちは皆、キリストに結ばれて一つだというのです。
私たちは神の家族の一員だというのです。
神の家族の一員となるのは、この平和をいただくためだというのです。
つまり教会はキリストの平和、神さまがくださる平和を与えられる場所なのです。
16節に「キリストの言葉をあなたがたの内に豊かに宿らせなさい」とあります。
キリストの言葉が私たちのうちに宿るとき、キリストの平和は確かなものになっていきます。
平和に満ちた教会、それは魅力的な教会です。

→16節。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」とあります。
キリストの言葉、あるいは神の言葉を心に豊かに宿しなさいとの命令です。
これは聖書の言葉を暗記しなさいということでしょうか。
違うと思います。
どのように豊かに宿らせるのかが、次に書かれています。
16節の後半、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合う」ことによってキリストの言葉を豊かに宿らせるというのです。
さらに神様に感謝し、神さまをほめたたえることによって、豊かに宿らせなさいというのです。


→すると信仰者の集っている場面が浮かんできます。
そこには聖書があります。
信仰者が集い、聖書を開き、互いに教え合い、諭し合うことによって、
キリストの言葉が心に深く宿るのです。
そして感謝と賛美が生まれてくるのです。
そんな信仰者の集いが目に浮かんできます。
詩編133.
「見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び」。
これが実感となります。


→ところで、多くの教会では、祈祷会を行っています。
その祈祷会では聖書の学びがなされています。
大抵は、定められた聖書の箇所について、牧師が話をし、
その後、参加者が感想を述べたり、あるいは質問を出して牧師が答えるなどします。
そして時間が来たら祈りに入る、
そういう集会が多くもたれているように思います。
そこで思うのです。
このような集会において、
互いに教え合い、諭し合うことが起きているのか、と。
多くの場合、起きていないと思います。
従って聖書の言葉が心に宿ることも少ないのです。
どうでしょうか。


→私は一つの失敗をしたことがあります。
一人の教会員が「もし私が間違ったときは、指摘してください」と話されたことがあります。
私はそれを真に受けて、ある時、「それは違うのではないでしょうか」と指摘したことがあります。するとその人は、私に対して反感を抱くようになりました。
人は、他の人から教えられたり、間違いを指摘されるのを嫌がります。
プライドが傷つくのです。


→今日の聖書で「知恵を尽くして」とあります。
その時、私が学んだことは、「人の話を聞いて学ぶ」ということです。
ある人が聖書の言葉をめぐって考えたこと、考えたことに基づいて行動したことを正直に話します。
失敗したこととか、その人の弱さなどが語られると
聞いている人は共感をします。
そういう話しは興味深いものです。
そういう話しから、人は学ぶのです。
分かち合いの中から、人は教えられ、自分の間違いに気づき、自分を正していくのです。
言い換えると、神さまが人の話を通して、他の人たちを教え、諭すのです。
私たちが自分のことを分かち合うとき、それは神さまに用いられ、
他の人を導くことになっていくのです。
するとそこには、神さまへの感謝と神さまを讃える賛美が生まれてきます。
このような集いは、魅力的な集いではないでしょうか。


→この集いに参加すると、
人は自分の悩みや問題を聖書によって取り組んでいくようになります。
まだ信仰を持っていない人がいれば、
信仰を持ちたいと願うようになります。
聖書の言葉が人を生かすことを分かち合いを通して学び、
分かち合いそのものが楽しみとなり喜びとなっていきます。
このような楽しみ、喜び、信仰にあふれている教会、
それが友だちを連れて行きたくなる教会であると、今日の聖書は語っています。

祈ります。