クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私の聖書の読み方について(6/6)

 適用するということは神さまの導きをいただくということです。神さまの導きをいただくことはすばらしいことだと思います。

 自分の人生を振り返り、神さまは私を導いてくださったと語る信仰者は少なくないと思います。教会員の方がそう語るのを何度も聞いてきました。

 でも、自分を神さまがどう導こうとされているのか、その導きを求めていると語る人に出会ったことはありませんでした。自分は神さまの導きに従って歩んでいると語る人もいませんでした。私たちが信じる神さまが生きて働かれる神さまなら、その神さまの導きに従って生きることは可能なのではないか、と私は思います。

 聖書には羊飼いが羊の先頭に立って歩き、羊を導くとあります。イエス様は私たちの羊飼いです。イエス様は私の主です。私は神さまの導きを知ることができるなら、それに従って歩みたいと思います。

詩編119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。

 適用することを考える時、問題となることは、その適用がどうして神の導きだと言えるのか、分かるのか、ということです。人間は果たしてそのような神の御心を知ることができるのでしょうか。神の導きが分かるというのは思い上がりではないか。あるいは錯覚なのではないか。自分勝手な適用をしてそれを神の導きというのはおかしいのではないか。そのような疑問がでてきます。自分が考えた適用を神の導きと考えていいのか、という問題です。

 適用に対する批判は時々聞きます。適用することを支持する聖書の言葉があると私は考えています。その言葉は、フィリピの信徒への手紙にあります。

フィリピ 2:12~13
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

 私たちが神さまに従順に歩み、救いを達成するように努める時、神は、御心のままに望ませ、とあります。神さまは、私たちに御心にかなうことを望ませるというのです。私たちが神さまに対して真剣に生きるなら、私たちのおかれた状況の中で、私たちに対する導きを神さまは与えてくださると私は信じます。それはインスピレーションという形で与えられるかもしれませんが、むしろ聖書を思いめぐらす中で与えられると私は考えています。

 ディボーションを始めたら、自分の適用が神さまの導きなのだろうか、迷うことはあります。自分勝手な適用なのではないかと思うこともあります。しかし神さまがいかなる方かを知るに従い、神さまが私たちに求める生き方が何であるかを知るにつれ、自分勝手な適用は消えていきます。

 自分の適用が神さまの御心であると私は断言しません。私は自分の適用が神さまの御心であると信じて、適用します。私は神さまの導きの中を歩んでいると信じて、喜びを与えられています。

 ディボーションをする時は、必ず聖霊の導きを祈り求めます。

 

f:id:holala:20210811173520j:plain

ノリウツギ 奈良市郊外