クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人の弱さと許し

 ブログを読んでくださっている方から質問が寄せられました。イエスのことを知らないなどとは決して言わないと述べたペトロが恐れにとらわれてイエスのことを知らないと三度も言ってしまうことに関連しての質問です。ペトロを通して人の弱さについてブログで語りました。

質問
イェスの教えは人の弱さを理解しそれを許すことですね。
我々にもできるのでしょうか。

 人間は弱い存在です。自分だけでなく皆そうです。人の弱さを理解することは大切だと思います。何よりも自分が弱いことを知ることは大切です。それは他者の弱さを理解することにつながります。自分の弱さを認めず、虚勢を保つことは自分をごまかすことになります。

 人間の弱さは、時に行動となって現れます。人は自分の行動の責任と問われるとき、人のせいにしたり、嘘をついたり、ごまかして責任を逃れようとします。あるいは弱さのゆえに、責任ある行動をすべきなのにそれから逃げようとすることもあります。

 自分に関わりのある人が、このような行動をしたとき、私たちはどう対応したらよいのでしょうか。その人が私に対して嘘をついたり、ごまかしを語ったら、私に責任転嫁をしたら、私はどうしたらいいのでしょうか。

 人は自分の過ちを認め、それを正直に認めることが大切だと聖書は教えていると思います。私に対して「申しわけありません」「ごめんなさい」と相手があやまったら私は許します。許しは聖書の教えです。

 でも相手があやまらなかったらどうしたらいいでしょうか。あやまらないのに私から「あなたを許します」とは言いません。許しは、あくまでも相手があやまってきたときにする行為であり、許しを求めていない人を許す必要はないと考えます。あやまらない人を許さなくてよいとは、聖書に書かれていませんが、これは道理です。

 この場合大切なことは、許せないという思いに自分の心が支配されてはならないということです。支配されると、許せないという思いに自分が束縛されることになります。これは避けるべきです。言い換えると相手が謝罪してきたら、いつでも相手を許す用意ができていることが大切となります。相手が許しを求めていないのに許す必要はありませんが、許しを求めてきたら、許すというのが道理にかない、また聖書の教えだと思います。

 人を許すことは、実は簡単ではありません。小さなことなら許せても事柄によっては許せないということがあります。許せないという思いに支配されたり、普段は忘れていても、何かあると思いだして許せないという思いで心がいっぱいになることがあるのが人間の現実だと思います。

 聖書(イエス)は、相手が謝罪してきたらいつでも許せるようにしておきなさいと教えていると私は理解しています。これが誰にも可能かと言われたら、ノーです。誰にも無理かと言われたら、ノーです。

聖書の言葉
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 

*質問ありがとうございました。

f:id:holala:20220325224931j:plain

京都賀茂川 2022.3.25