クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

祈りについて考えたこと

 信仰生活を始めてから、私には分からないことが二つありました。聖書をどう読んだらいいのか、祈りはどう祈ったらよいのか、です。聖書の読み方については、超教派の集会で聖書の読み方を学び、それを自分に合うようにした読み方を20年以上続けています。

 祈りについては、こう祈ればよいと自分で納得する祈りの生活ができていません。祈りについての本は色々読み学びましたが、今ひとつです。むずかしく考えないで祈ればいいんじゃない、という意見もあると思います。でも「腑に落ちる」というか、心から納得して祈りたいのです。

 私にとっての課題は、祈りにむなしさを覚えることでした。忍耐強く祈ることは知っています。ある事を祈ったときは、2年半祈り続けました。そしてかなえられました。

 今回、イスラエルとハマスの争いにおいて、イスラエルは自衛の域を遙かに超える攻撃をし人命を奪っています。忍耐強く平和を祈っていたら、ガザ地域はイスラエルの攻撃で廃墟になってしまうかもしれません。祈りは無力だとは思いませんが、ガザの状況はどんどん悪くなっていくとしたら、祈りに何の意味があるのかと思うこともあります。

 最近祈りについて考えたことは、私は神の前に生きる者として祈ればよいということです。神の前に生きる者として正しく祈るってどういうことかと考えました。特に執り成しの祈り、他者のことを覚えての祈りについては、祈りの結果については思案せず、単純に祈り続ければよいと思うようになりました。自分は祈り、後は神にゆだねるという考え方です。キリスト者として自分は祈るべきことを祈ればよいという考え方です。

 イスラエルとハマスが争いをやめ共に平和を求めるようにと祈り続ければよいと考えました。もちろん、イスラエルのガザ侵攻で人命が失われることのないように、特に子供たちの命が守られるように、と祈り続ければよいと考えました。

 キリスト者として祈りの務めを果たせばよいのであって、まだ祈りがかなえられていない現実に気持ちを左右されないことが大切だと考えることにしました。

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