クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信じる心と疑う心(1)

 先日ヨハネ福音書を読んでいて、自分がトマスについて誤解していたと気づかされました。イエスが復活したと弟子たちが告げたとき、トマスは信じようとしませんでした。そこからトマスは「疑い深い」と言われるようになりました。

 讃美歌243番「ああ、主のひとみ」の3番に歌詞にトマスが登場します。

ああ主のひとみ まなざしよ
うたがいまどう トマスにも
・・・

 この讃美歌にも「疑い」という言葉があり、トマスは疑い深い弟子だと私は思ってしまいました。しかし聖書を読んでみると、トマスは疑い深いのではなく、信じることに用心深いというべきだと思いました。

20:25
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。

 トマスは他の弟子たちの語ったことを疑ったと解釈できますが、ほかの弟子たちの言葉を聞いて信じないのは、自分は納得して信じたいと考えていたと理解します。トマスは信じたいのです。自分なりに納得して信じたいのです。疑い深いのではなく、用心深いのだと理解します。

 イエスは彼に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。信じない者と信じる者との対比があり、信じる者になりなさいとイエスは言われました。「疑わず、信じなさい」と言ったのではありません。

 私には疑い深い面があるので、トマスは私だと思ってきましたが、トマスと私が違うことを思いました。私は信じている事柄に対しても、それは本当か、と自分に問うことがあります。

 光に向かって歩むとき、後ろを見ると影があります。信じて真っ直ぐに歩んでいても、後ろを見ると影、信じる心には疑う心が伴うと思います。疑う心はあるけど、それにもかかわらず信じる、それが自分の信仰だと私は考えてきました。疑いがあるけど、それにもかかわらず信じる、とても人間的で正直で嘘がなくいいと思ってきました。私のような信仰者もいるだろうし、そのような人たちの模範となればよいのではないかとも考えてきました。

 最近、それでいいのかと考えるようになりました。

フユアオイ 萬葉植物園