ルカ福音書では、十字架につけられたイエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られました。
マルコ、マタイによる福音書の「なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びとは違い、ルカが描くイエスは「御手にゆだねます」と穏やかに死んでいきます。
死に際し、自分の霊を神にゆだねるのは、すべてのクリスチャンに共通の思い、願いであると思います。キリスト者は自分の死に際し、イエスに倣い自分の霊を神にゆだねて死にます。神にゆだねた後、終わりの時に復活し、神の審判の後、神の国に迎えられると信じて命を終えます。神にゆだねるとは自分の死後のことについて、自分では何もできないということです。しかしゆだねることができます。ここにキリスト者の希望があります。
信仰を持たない世の人々は、死を宿命として受けとめ、自分の死を受け入れます。生まれてきたからには宿命として死があると考えます。キリスト者は神にゆだねることができます。
コリント一 8:6
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
信仰者は、神のもとに帰ります。神に自分の霊をゆだねて死んでいきます。
かつて私は、生涯の最後に神にゆだねるなら、ゆだねる訓練をしようと思いました。つまり地上の生涯を神にゆだねて歩むことにしました。
人生の大きな流れとしては、福音を宣べ伝える働きに召されたと信じ、神にゆだねて、牧師として生きる道を選びました。神の召しに応えての応答ですが、どのような歩みをするのかまったく予想もつきませんでした。牧師として、三重県、静岡県、石川県の教会で働きました。そして今奈良県に住んでいます。自分で選択した結果ではなく、神にゆだねた結果です。
日々の生活でも、自分なりの計画や思いで歩みますが、それ以上に聖書を読み、神の導きを得て、その神の導きに身をゆだねて歩んできました。そして今思うことは、神の導きにゆだねてよかったということです。
年を重ね、いつ地上の生を終えてもおかしくない身となりました。神にゆだねて生を終えることが大きなそして最後の課題になります。
わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわんそなえたもう 主のみちを
ふみてゆかん ひとすじに
(讃美歌494)