クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

見ないのに信じる者は幸い

 ヨハネ福音書でイエス様の復活記事を思いめぐらしました。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言いましたが、トマスはイエス様の復活を信じようとしませんでした。イエス様の手の釘跡、イエス様のわき腹に手を入れてみなければ信じないと主張しました。信仰は聞くことから始まりますが、トマスは聞いても信じようとしませんでした。自分で確かめることができなければ信じないと主張しました。彼の気持ちは分かります。

 イエス様がまた家の中に閉じこもっている弟子たちに現れました。イエス様は御自分の手とわき腹を差しだし、確かめるようにお話になりました。トマスの願いを受け入れられたのです。イエス様のやさしさを感じます。そして「見ないのに信じる者は幸いである」とお語りになりました。でもなぜ、見ないのに信じる者が幸いなのでしょうか。

 私には一つ課題があります。聖書は告げます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。 

  イエス様を信じる者は永遠の命を得る、という神さまの約束です。この世の生涯を終えれば、神の国に迎えられるという約束と考えてよいと思います。この約束を私は聖書から聞きます。

 私にはトマスのように、この約束が本当であることを確かめることができなければ信じないという強い思いはありませんが、信じて大丈夫だという確かさを求める思いはあります。トマスは私です。私はトマスなのです。イエス様は「見ないのに信じる者は幸いだ」と語られるます。なぜ幸いなのでしょうか。

 牧師をしていたとき、施設に入っている老婦人が訪問した私に言ました。「イエス様が枕元に現れました。私はいつ死んでもいいです」。彼女には一種の確かさが与えられたのです。私もこのような確かさが与えられたらいいなと思いますが、見ないのに信じる者は幸い、とイエスは言われました。なぜ幸いなのでしょうか。

 別の老信徒は「天国の約束は確かめることはできない。信じるしかない」と話されました。この発言からは見ないのに信じる人の幸いを感じることはできません。確かさは得ることができない、だから信じるしかない、との発言。気持ちはよく分かります。私も同じです。だからこそ、なぜ見ないのに信じる者が幸いなのかと追及したくなります。

 信仰上の確かさ、というのは信仰に生きる私の一つのテーマでした。どうしたら確かさを手に入れることができるのか、もがきました。その中で得られた一つの結論は、確かさを人は自分の手に握ることはできないということです。確かさを求めても得られないのです。神が存在するという確かさ、自分が牧師に召されているという確かさ。確かさを求めて、神にしるしを求めたこともあります。しかし得た結論は「確かさはみ言葉にある」です。み言葉が真理なので、御言葉が語ることこそ確かなのです。

 「御言葉が語ることが確かである」ということは、本当に確かなことなのか、との疑問が出るかもしれません。この疑問には果てがありません。「『御言葉が語ることが確かである』ということは、本当に確かである」ということは本当に確かなのか。私たちは信仰者なので、「み言葉が真理なので、御言葉が語ることこそ確かである」という立場に立ちます。これが信仰生活の中で得た私の結論です

 御言葉が語ることが真理であり、確かなのです。だからみ言葉に立ち、み言葉を信じる者は迷うことなく信じて歩むことができます。だから見ないのに信じる者は幸いなのです。

 なるほど、それはそうだ。しかしそう言われると一種の建前に聞こえるのです。反論はできません。だから信じるしかない、という言葉が出てくると思わされます。腑に落ちていないのです。心は信じることができていないのです。

 イエス様を信じる者は神の国に迎えられるとの聖書の約束。御言葉が語ることが真理、み言葉にこそ確かさがあるというのが私の信仰です。なのに、御国に迎えられるという確かさを求めたくなるのはなぜでしょうか。一つには平安に自分の死を迎えたいとの思いがあります。神の国に行くのですから、よろこんで死を迎えたいとの思いさえあります。かくして私の心には葛藤が生じます。確かさはみ言葉にあると理性は語ります。しかし心は確かさを求めます。頭と心の葛藤。

 神が御言葉を通して約束しているのに確かさがほしいというのは、神を信頼していないということ。神を信用していないということ。つまり不信仰。「肉の思い」があるということ。

ガラテヤ5:16~17
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 見ないのに信じるのはなぜ幸いなのか。御言葉が語ることをそのまま信じることができるから。そしてそれは聖霊の導きによると教えられます。聖霊の働きを受けることができる者は幸いであるとイエス様はおっしゃっているのではないか。ここで私は思い出しました。ハイデルベルク信仰問答が信仰について語っていることを。

問21 まことの信仰とは何ですか。

答 それは神がみ言葉において
  わたしたちに啓示されたすべてを
  わたしが真実であると確信する
  その確かな認識のことだけでなく、
  福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、
  心からの信頼のことでもあります。

 確かさを求めるのは人間の持つ「肉」のせいです。生まれながらの人間が持っている性質です。大切なことは聖霊の導きを受けて、永遠の命の約束を心から信じることです。見ないで信じる、それは聖霊が私たちのうちに起こしてくださる信仰なのです。だから幸いなのです。ようやっと出発点に立つことができました。

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クサイチゴ 散歩道にて