クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今週の日曜は、奈良県のG教会の礼拝に奉仕してきました。この日は奈良マラソンが開催され、市内のメイン通りがマラソンで走る通りとなり、バスが軒並み運休となりました。朝家を出る時間は、運休になるかならないかの微妙な時間でしたので、思いきって早めに家を出ました。駅にはだいぶ早く着いたので、コーヒーを飲んでゆっくりしてから出かけました。礼拝参加者は決して多くはありませんし、高齢化もしていますが、皆さん力を合わせて礼拝を献げ、教会の働きを担っています。こういう会員の姿を見ていると、神の言葉をきちんと語らなければいけないと思わされ、励まされます。


 デボーションは、「御言葉に生きるための提案」のサイトをご覧ください。

 12月10日G教会での説教↓

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聖書 マタイ 25:31〜46
説教 主の到来を待ち望む
2017/12/10

→今、教会では、アドベントと呼ばれる時期を過ごしています。
アドベントは、「出現」「到来」を意味し、さらにキリストの到来を意味します。
アドベントの期間、キリストの到来を待ち望みます。
ひとつには、今から2千年前のキリストの到来を祝うクリスマスの日を待ち望みます。
もう幾つ寝るとクリスマスと、ろうそくを灯してキリストの降誕を待ち望みます。
もう一つは、世の終わりにおけるキリストの到来です。
私たちは目を過去に向けて、神さまが救い主をこの世界に送ってくださったクリスマスをお祝いします。
私たちは目を将来に向けて、キリストの到来を待ち望み、神の国の完成を待ち望みます。
このアドベントの時、キリストの再臨を待ち望む思いを確かにしたいと思います。


→聖書は、キリストの再臨を教えています。
そして再臨したキリストがすべての人を裁く最後の審判についても聖書は教えています。最後の審判の後、神の国が完成します。
聖書は、世の終わり、終末のあることを教えています。
ここにやっかいな問題があります。
終末の到来そして最後の審判、それは現代の人には、絵空事に見えるのではないでしょうか。
私も信仰者とはいえ現代に生きる者です。
でも聖書にはその日が到来すると書かれています。
どうしたら終末の事柄、つまりキリストの再臨と最後の審判神の国の完成を信じることができるのか、私はかなり長い間悩みました。
牧師としてはこれを教える立場にあります。


→大切なことは、私たち信仰者は何を根拠に信じるのか、ということです。
自分が信じられるから信じるのか、
それとも聖書に書いてあるから信じるのか。
信じる根拠を自分に置くのか、聖書に置くのか、です。
聖書に書いてあることを真実として信じる、それが私たちの信仰です。
それは分かっているのです。
積極的に疑わなくても、心のどこかに本当かな、と思う心が足を引っ張るのです。


→キリストの再臨を素直に信じられる人は幸いだと思います。
積極的に疑わなくても、心のどこかに本当かな、と思う心があっても、
私はいいと思います。
その時に大切なことは、キリストの再臨を受け入れることです。
受け入れるとは、キリストの再臨はあると考えることです。
つまり、キリストが再臨することを前提として考えていくのです。
キリストの再臨がないかのごとくには考えないのです。
さて今日の聖書は、まさにキリストの再臨をテーマとしています。

→イエス様は、世の終わりにこの世界においでになると今日の聖書に書かれています。
「人の子は栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」とあります。
人の子はイエス様のことです。
ここでイエス様は栄光に輝いているとあります。
これは何よりも、イエス様が神の子であり、救い主であること意味しています。
しかもイエス様が救い主であることは、すべての人に明らかになるというのです。
2千年前イエス様がこの世界においでになった時、イエス様を信じる人もいれば、
信じようとしない人もいました。
エス様が再臨される時は、そのお姿は栄光に輝き、だれもがイエス様がまことの救い主であったことがわかるのです。
エス様を信じなかった人たちは、栄光に輝くイエス様のお姿を見た時、
何を感じるのか分かりませんが、
エス様を信じる人にとって、これは素晴らしいことです。
栄光に輝くイエス様のお姿を見ることができる、これは喜ばしいことです。
エス様が救い主であることがすべての人に明らかになる、これも喜ばしいことです。
主イエスの再臨の時、それはイエス様を信じる者にとっては喜びの時なのです。


→栄光に輝くイエス様の前にすべての国の民が集められると書かれています。
エス様がおいでになった時に生きている人すべて、
そして、この時すでに死んだ人たちも皆、イエス様の前に集められます。
そして羊飼いが羊と山羊を分けるように、
エス様は人を右と左により分けるというのです。
右にいる人たちに向かってイエス様は「私の父に祝福された人たち」と呼びかけ、
天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と祝福されます。
つまり「あなたがたを神の国に迎えます」とおっしゃってくださるのです。
私たちは、栄光に輝くイエス様から、「よくやったね」とほめていただけるのです。
エス様を信じて生きてきたことの光栄を覚えるのです。


→そしてイエス様は、人を右と左により分ける基準について話されました。
それは『最も小さな者』を顧みたかどうか、という基準です。

→この「最も小さい者」って誰のことでしょうか。
「小さい者」という言葉はマタイ福音書に何回か出てきます。
10章42節にこうあります。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。
ここでは小さなものとはイエス様の弟子を指しています。
つまり福音を宣べ伝えるために旅をしている弟子たちに水を一杯でも飲ませる人は、報いを受けるという意味です。
『最も小さい者』はイエス様の弟子を指すとは思えません。


→あるいは18章6節には、こうあります。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。
この場合の小さな者は、信仰の初心者を指します。
このような人たちを惑わし、信仰から離れさせることがここで咎められています。
信仰の初心者も、今日の箇所には当てはまらないと思います。


→さらに18章10節にこうあります。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。
ここでは小さな者とは、人から軽んじられる人を意味しています。人から軽んじられていても、神は彼らを顧みておられるというのです。
私は今日のマタイ25章の「最も小さな者」とは、
このように、人から軽んじられる人、しかも多くの人から軽んじられてしまうような人たちと解釈したいと思います。
多くの人から顧みられないのです。
この人たちが困っていても、他の人々は知らん顔するのです。
今日の聖書の後半には、飢えていても食べさせてもらえず、喉が渇いていても飲ませてもらえず、と人から顧みられない人たちが登場しています。
このような最も小さな人を顧み、親切を施すことは、イエス様に親切にすることだというのです。
そして「わたしの父に祝福された人たち」と呼ばれるというのです。
誰からも軽んじられてしまうような人たちをイエス様が顧みられたという話しは福音書にくり返し語られています。
エス様がされたように、誰からも軽んじられるような最も小さい人を顧みる人が、
「わたしの父に祝福された人たち」と呼ばれるのです。

→そこで疑問が生じます。
人は行いによって救われるのか、という疑問です。
人はイエス様を信じることによって救われると私たちは教えられています。
今日の聖書には、最も小さな人に対してどのような態度を取ったかで、
人間の行く先が分かれているように見えます。


→マタイ7:21にはこうあります。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
この聖書の言葉も、天の父の御心を行うことが天国に入る条件に思えます。
あるいはマタイ16:27にはこうあります。
「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。
今日の聖書箇所と同じことが言われているように思えます。
エス様は行いによる救いを教えているのでしょうか。


→聖書の言葉の理解には文脈つまり前後関係を考慮することが大切です。
先ほど読んだマタイ7:21
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。
この箇所の前後を読むと、行いによる救いが教えられているわけではないことが分かります。
エス様は、弟子たちに色々なことを教えられました。
それは山上の説教と呼ばれます。
山上の説教の最後でイエス様はこう語ります。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」。
エス様は、弟子たちがイエス様から聞いた教えを行うことの大切さを教えています。
さらに言えば、イエス様の弟子は、イエス様から聞いたことを行う人、それ故、天の父の御心を行う人だというのです。
ですから「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」は、
救いの条件を語っているのではありません。
あなたがイエス様の弟子として誠実に歩み、イエス様から聞いたことを実践し、
父なる神の御心を行ってきたのなら、
あなたがたは天の国に迎えられますよ、と励ましておられるのです。

→そこで最も小さい者を顧みることに戻ります。
エス様の弟子は、最も小さな者を顧みるのです。
だからイエス様の弟子として生きた人を
「わたしの天の父に祝福された人たち」とイエス様はおっしゃるのです。
ここで大きな問題が起こります。
私たちはイエス様の弟子として最も小さな者を顧みているかどうか、です。
誰からも軽んじられる人たちを、顧みるどころか、私たちも軽んじているのではないか、という問いが起きます。


→イエス様は善きサマリア人のたとえを語られました。
ひとりの旅人が強盗に襲われ、半死半生状態で道端に倒れていました。
彼を顧みないで通り過ぎる人がいたのです。
祭司とレビ人が通り過ぎたとあります
彼らは共に神さまに仕えることを仕事としている人たちです。
彼らに「なぜ助けなかったのですか」と聞いたらどんな答えが返ってくるのでしょうか。
弁解の言葉が出てくると思います。
あるいは「私はあの旅人とは関係ないっし、とやかく言われる筋合いはありません」などと言うかも知れません
確かなことは、彼らは旅人を助けるための労苦と時間を惜しんだのです。


→もし傷ついて倒れていたのが、大祭司だったら、どうでしょうか。
大祭司は、祭司やレビ人の上司になります。
助けることによって何らかの見返りを期待できる人です。
つまり大祭司は、顧みる価値のある人なのです。
助けるための労苦と時間を使うだけの価値があるのです。
しかし傷ついた旅人は、祭司やレビ人にとっては、顧みる価値がなかったのです。


→善きサマリア人のたとえを通して、
エス様は隣人を愛することを教えられました。
助けを必要とする人がいて、その人がこちらを見ているなら、
それは助けてというサインですから、助ける、それが隣人愛だとイエス様は教えています。
今日の主イエスのお話には、助けを必要とする人がいます。
飢えている人、喉が渇いている人、病気の人、貧しくて着るものがない人など。
その人たちを顧みるかどうか、です。
そこで思います。
私たちは、この最も小さな者を顧みる者なのかどうか。
仮に顧みるとしても、「何で私がここまでしなければならないの」と
心の中で、不満を持つのが私たちではないかと。
私たちは最も小さな者を顧みることのできないものです。
少なくともいつも喜んで顧みることができない者と言ってよいのではないでしょうか。
となると、主イエスの再臨の時、私たちは救われなくなるのでしょうか。

→そんな私たちは神さまの目にどう映るのでしょうか。
神さまがどう思うかは分かりませんが、
私たちは神さまの顧みに値しない人間なのだと思います。
皆さんはご自分をどう思われるでしょうか。
自分は神さまの顧みに値する人間だと考えられるでしょうか。
祭司やレビ人たちのように、あのような人は、私が顧みるに値しない人だと考えるのは、高慢です。
あの人は私の顧みに値する人、値しない人などと考えるのは高慢です。
私たちのうちにはこの高慢な心があります。
高慢は神さまの嫌われることころです。
そういう私たちこそ、神さまの顧みに値しない者なのではないでしょうか。


→でも神さまは、そんな私たちを顧みてくださるというのです。
エス様は人々から軽んじられ、見下げられる人のところへ行き、共に食事をなさいました。
エス様は顧みに値しない人たちを顧みられました。
神さまは、顧みに値しない私たちを顧みてくださいます。
どのように顧みてくださるのでしょうか。


→イエス様が十字架の上で罪の赦しのためのいけにえとなってくださいました。
聖書はこう語っています。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。
神さまは、イエス様を信じる私たちの高慢の罪の赦しを与えてくださいます。
私たちは「最も小さな者」を顧みることのできない、
いや顧みることをしようとしない高慢という罪を持つ者ですが、
そのような私たちを神さまは顧みてくださいます。
私たちの罪を赦し、私たちの心に神さまの愛を注いでくださいます。
礼拝の最後の祝祷で、「主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように」との祝福の祈りがなされます。
神の愛があなたの心にあるようにとの祝福に押し出されて私たちは一週間の歩みをしています。


→イエス様を信じる私たちに神さまは聖霊を賜物として与えてくださいます。
聖霊なる神様は、私たちの内に、そして私たちと共にいてくださいます。
聖霊の助けを得て結ぶ実は、愛、喜び、平安、・・・です。
私たちは、最も小さな人を顧みることのできないものでしたが、
今や神の愛をいただいて、顧みることのできる人とされているのです。
あなた、これを信じますか。
これはイエス・キリストの恵みです。
礼拝最後の祝祷を受ける時、
あなたは主イエス・キリストの恵みをいただいて、
最も小さな人を顧みることができるようにされているのです。
あなたの心に神の愛も注がれているのです。
最も小さな者を顧みる、それは言い換えると隣人を愛することです。
あなた、これを信じますか。

→私たちは世の終わりの主イエスの到来を待ち望みます。
終わりの日の裁きは、信じる者にとっては、喜びの時です。
そこには栄光に輝くイエス様とお会いする喜びがあります。
エス様がすべての人の救い主であることが明らかとなり、
エス様を信じて信仰の歩みをしたことの光栄を覚えることができます。
そして、あなたはよくやったとのおほめの言葉をいただくことができます。

讃美歌二編の第一番に「心を高く上げよう」という讃美歌があります。
4節はこうです。
「終わりの日が来たなら、裁きの座を見上げて、
わが力の限り 心を高く上げよう」。