霊に従って歩むに際し、第一にキリスト者は自分が何者であるかを自覚すること、第二に肉に従う力が働くので、これとの戦いがあることを指摘しました。その上で霊に従って歩むときの目標が今回のテーマです。
ローマ 8:4
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
律法の要求とは何でしょうか。イエスは律法の中で一番大事な戒めは何ですかと聞かれて、神を愛すること、隣人を愛することだと教えられました。
マタイ 22:37~40
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
霊に従う人はこの戒めを守るよう努めます。今回は神を愛することについて考えます。
ヨハネ一 5:3
神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
神を愛するとは神の掟を守ることだとあります。霊に従う人は神を愛し、神の掟を守る人ということになりますが、いきなり、神の掟を守ることを考えようとすると、私たちの中にある肉の性質が表に出てきて邪魔します。神の掟を守るなんて無理、ということになりかねません。
神の掟を守る前に大切なことがあります。それは神という存在を大切に考える、神の御心を尊重し、敬うということです。愛するとは相手の存在を大切に考えることから出発します。これができないとき、神の掟を守ろうとしても守ることはできません。
神という存在を大切に考えるためには、神がいかなる方かを知ることが大切です。そこで私たちは聖書を読み、神がどんな方であるかを知る努力が大切となります。これをしないと私たちは、自分のイメージで神を考えてしまいます。つまり偶像をつくってしまいます。
私たちは聖書を読んでも、神がいかなる方かを知り尽くすことはできません。でも聖書から神を知るにつれ、神に対する信頼が生まれていきます。たとえば神の掟は何のためにあるのでしょうか。神の掟は人間を祝福するためにあるとの信頼が生まれます。だから私は「守らなければならない」という発想は消えます。
そもそも神はなんで掟を人間に与えるのでしょうか。守る者をほめ、守らない者に罰を与えるためでしょうか。違います。神の掟を守ることが人間の幸いにつながり、人間を祝福するものだからです。神は人間を愛し、人間が幸いな歩みをして欲しいのでいかに生きるべきか、掟を与えるのです。
聖書を読んで神がいかなる方かを知り、神の御心を知り、神に信頼するようになると、神の掟を守らなければならないという発想が消え、神の掟を喜んで守りたいと考えるようになりますし、守るようになります。