クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

矢田丘陵にハイキング

 昨日は矢田丘陵にハイキングに行きました。去年一年間は、山歩きは自制していたので、楽しみな一日でした。スミレも沢山咲いていて、恵みの一日でした。コースは矢田子どもの森、東明寺、矢田寺と進み、ここで昼食にしました。桜の木が何本も花を満開にさせていた見事でした。桜を見ながらの対話。


A:「僕のおふくろは、シンイチとユウコしか見ていないんだよね」
N:「そう、鳥羽に赴任した時は、子どもは二人。でもあの時、アヤコは私のお腹にいたのよ。お母さんが夏に鳥羽に来た時、『今度は私が手伝いに来ないとね』と言ってくださったのよ。でも秋に突然亡くなって」。
A:「じゃあ、アヤコが生まれた時は、川上のお母さんが来てくれたわけだね」
N:「そう、母が来てくれたわ」
A:「そうか、あれからもう30年以上経っているわけか」
N:「そうね、早いものね」
A:「そのあやこが出産か」
N:<曾野綾子が出産?>(心の中のつぶやき)
A:「そ〜の、アヤコが出産」
N:「あっ、アヤコね」
A:「時がずいぶん流れたんだね」


 夜中に目が覚めた時、ふと考えました。そうだ、あれから30年以上過ぎている。娘のアヤコの双子の出産の手伝いに今奈良に来ている。僕は今70歳。そう遠くない時期に人生を終えることになる。若い時のように永遠に生きるような思いとは違う思いを僕は持っている。人が何年生きるのか、人生の長さは人それぞれで、しかもそれがどれくらいなのかはだれにも分からない。僕は納得して人生を終えたいと思っている。


 人生は神さまの賜物、限られた時間生きるという賜物。神さまを創造主と認めることは、自分が被造物であることを認めること。被造物であると認めることは、限られた人生を生きる存在であることを認めること。自分は死すべき存在であることを認めること。


 現実的には、自分が死すべき存在であることを人は認めざるを得ない。だからといって必ずしも死ぬことを納得しているわけではない。諦めがそこにあるかも知れない。だからこそ、人には人生を終えることについて自分を納得させたい思いがあるに違いない。人のことは分かりませんが、僕にはある。

 人生は賜物。そして使えばなくなっていく賜物。使えばなくなる命。使命という言葉を思う。そして信仰者として生きるとは、まさに使命に生きること。命を使うこと。命を使い切る時、納得して人生を終えることができるのではないか。使い切っておしまい!なのではなく、神さまのもとに帰る。夜中の黙想。