クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

アブラハムを思う

 家の中で荷物をずっと整理していたので、気分転換がしたくなり、午後、若草山に登りました。家から15分ほどで春日大社に着き、さらに10分ほど歩くと、若草山の登山ゲートに着きます。観光客も沢山います。中国人が多くいます。30分ほど登って山頂。帰りは春日山遊歩道を通って降り、家に戻りました。牧師を引退したので、明日の礼拝説教の準備はありませんが、歩きながら、アブラハムのことを黙想しました。

  • アブラハムは、神の約束を最初に聞いた人でした。
  • アブラハムは神の約束を聞いて、この約束を信じて、その後の人生を歩んだ人でした。
  • 神の約束は、彼の子孫が増え、大いなる国民になるというものでした。


↑若草山から見た奈良の町。東大寺の屋根が見えます。
 アブラハムにとって、この約束はどんな意味があったのでしょうか。彼が生きている間には実現しない約束。そんな約束を受け入れ、神の示す地に向かって旅をすることによって、その後の彼の人生は変わったのです。神の約束に自分の人生を賭けたのです。神の約束を受け入れ、その実現を頼みにして生きることが信仰だと教えられます。神の約束を受け入れ、それを頼みとして生きることが信仰だなんて、だれが想像できたでしょうか。

 私たちもまた神の国に迎えられるという神の約束をいただきました。それは、私たちが生きている間には実現しない約束です。ヘブル書によれば、アブラハムは「行き先も知らずに出発したのです」(ヘブル11:8)。私たちもまた神の国を目指してこの世の旅をします。なぜ、生きている間は実現しない神の約束を信じ、神の国を目指す生き方をするのでしょうか。神の国は、死んだら行くところではなく、神の国を目指す生き方を私たちはするのです。

 子孫が増えるという約束は彼にどんな意味があったのでしょうか。自分が生きている間は実現しない約束です。アブラハムの子孫にとって、自分たちが存在するのはアブラハムがいたからです。自分たちの存在をアブラハムに負っているということができます。自分がいるから子孫がいる。自分の存在は意味のある存在です。子孫にとっては、アブラハムはいてもいなくてもどちらでもよい存在ではなく、アブラハムがいたから自分が存在したのです。子孫にとってアブラハムの存在は意味があるのです。それ故に、アブラハムにとっても自分の存在が意味あるものとなります。

 人はいつか死にます。私もいつの日か死にます。わたしの人生に意味があるのかと言われたら、少なくとも子孫にとっては意味があります。私が存在しなければ、子孫は存在しません。私の存在は意味があるのです。私も人生も意味があり、意義があります。さらにイエス・キリストを宣べ伝える教会に属し、教会に属して生きていることは、この教会に後に属するようになる人たちにとって意味があります。私の存在は、キリストを信じる神の民の一員として意味があり、神の民が存続するためにも、意味があると考えることができます。

 私には、納得して死を迎えたいとの思いがあります。アブラハムの歩みは示唆を与えてくれます。こんなことを考えながら、若草山を登り、また山を下りました。私にとっては有意義な黙想の時でした(つづく)。