コリントの信徒への手紙を読み続けて15章に来ました。15章は復活を語っています。今日は「最後の敵として死が滅ぼされます」と書かれています。思いめぐらしました。
死は私たちの敵とあります。普通の人は死を生命を有する者に起こる一つの自然現象、出来事と考えます。しかし聖書は死を自然現象とは考えていないと思います。
まず私たちの生死を握っているのは神さまです。私たちの死の時を決めているのは神さまです。
コヘレト 3:1~2
何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時・・・
人は自分の死を思う時に死の恐怖を感じます。もし死が自然現象であるなら、なぜ人はこれを恐れるのかと思います。人は考える存在であり、自分の存在が死により消えてなくなることを考えると死を恐れるのは自然と考えます。人によって考え方は違いますから、死を自然のこととして受け入れ、死の恐怖を感じない方がいることを私は知っています。
聖書は死を自然現象とは考えていません。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。死は罪の結果というのが聖書の考え方です。そればかりではなく、罪は神の裁きを招きます。人が死を恐れるのは、無意識のうちに神の裁きを恐れているからではないかと私は考えています。
死は最後の敵とされます。死は現象であり、出来事なのになぜ死は敵なのでしょうか。死は私たちに恐れを与えます。恐れを与えるものは決して味方ではありません。むしろ敵と考えるほうが自然です。そして私たちは死に勝つことができず、人は皆死にます。しかし聖書は、その死が滅ぼされると語ります。どういうことでしょうか。
テモテ二 1:10
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
ヘブル 2:14~15
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
人は死にます。人は死の支配の中に置かれています。しかしイエス様は復活し、死の支配を打ち砕き、死の恐怖の奴隷状態から私たちを解放してくださいました。もはや死は私たちを恐れによって支配することはありません。死は私たちにとって脅威ではなくなりました。テモテ二は、キリストは死を滅ぼしたと語りますが、それは私たちを恐れさせる死の脅威はなくなったとの意味だと考えます。そしてヘブル書も、キリストのおかげで死の恐怖から解放され、死は私たちにとって脅威ではなくなったと語ります。私たちは死を避けることはできません。でも死は恐れの対象ではなくなりました。死は脅威ではなくなった、それが死は滅びたとの意味と考えます。
死は最後の敵として滅ぼされます。最後の敵とはどういうことでしょうか。終末の日まで歴史が続き、人間の営みがなされ、人間が生きています。そして人間が生きている限り、死は人間に恐れを与え続けます。だから死は最後の敵と言われるのでしょうか。人間に最後まで恐れを与えるのが死です。それが「最後の敵」という意味だと考えます。
パウロは「死ぬことは利益なのです」と思いがけないことを書きます(フィリピ1:21)。「この世を去ってキリストと共にいたい」(フィリピ1:23)と熱望しています。死んでキリストと共にいることが実現するから死を利益と考えています。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピ1:21~23)。