ある時から、神を愛するとはどういうことかを真剣に考えるようになりました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と問われてイエス様はこうお答えになりました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。
最も重要な掟は、神を愛することであると教えられました。神は見えないし、神に対して恋愛感情をもつこともできないし、神を愛するとはどういうことなのだろうと考えるようになりました。そして聖書に答えを見いだしました。
神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。(ヨハネの手紙一5章3節)
聖書が語っているのですから、この答えに疑問をさしはさむことはできません。でも「その通り」と心から同意できる答えではありませんでした。なぜなら、神の掟を守らなければならないと考えると束縛感があります。そして聖書に登場するファリサイ派や律法学者たちのように律法主義に陥ります。だから「守らなければならない」ではなく、喜んで守るようになればよいと考えます。これなら律法主義には陥りません。しかし喜んで守るにはどうしたらよいのでしょうか。
私の信仰理解において転機となったのは、神は人格をもったお方であること、そして罪とは、この方の心を軽んじること、敬わないこと、逆らうことと理解したときです。罪はあれやこれやの悪しきことを行うことではなく、神の心を軽んじることにあると知りました。神の心を軽んじれば、必然的に悪しき行いが生じてきます。罪とはあくまでも神の心を軽んじると理解したことは、一つの転機でした。この罪理解をもつようになって、自分はましな人間だと思うことはなくなりました。自分は罪深い者であると知りました。人間には自分の心を一番大切にしたいとの思いが心にこびりついているからです。
でもそのことを知ったとき、その私を神さまが愛してくださっていると知りました。私を愛してくださるとは、私の心を大切にしてくださるということです。そしてわたしを義と認めてくださいました。神を愛するとは神さまの心を大切にすること、神さまの心を大切にするなら、神さまの掟を守るはず、そう考えるようになり、自分としては納得しました。神さまの戒めは喜んで守りたいとの思いに導かれました。
そして今日、そうだ、私にとって神さまを愛するとは、神さまの言葉を愛することだ。神さまの言葉を愛するから、私はデボーションをし、神さまの言葉によって生きる歩みをしてきたのだ、と思いました。