神はイスラエルの民が王を立てることを望んだとき、イスラエルの民は、神が彼らの王であることを願わなかった、と理解しました。しかし神は王を立てることを許し、さらに神自ら王を選びました。サウロ王です。
神は、神の指示に従わないサウロを王の地位から退けました。そして神はダビデを次の王に選びました。ダビデを選ぶにあたり神は、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われました。そして神はエッサイの息子たちの中からダビデを王として選びました。神さまは王が神を畏れ敬う王であれば、イスラエルを神の民として認めることができると考えたのだと思います。
ダビデは、イスラエルを攻めてくるペリシテ人との戦いを繰り返しました。その際ダビデは徹底的に神に指示を求めました。そして与えられた指示に従い闘い、勝利を得ることを繰り返しました。さらにダビデはアラム人とも闘いました。「主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた」(サムエル記下8:6)。
ダビデは神を敬い、神に信頼する王でした。神の民イスラエルの王にふさわしい王でした。それで神はダビデにあなたの王朝をとこしえに堅く据えると約束されました。これを受けてダビデが祈った祈りがあります。
サムエル記下7:22~24
主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。また、この地上に一つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれを贖って御自分の民とし、名をお与えになりました。御自分のために大きな御業を成し遂げ、あなたの民のために御自分の地に恐るべき御業を果たし、御自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、この民を贖ってくださいました。主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。
ここには、イスラエルが神の民であることを深く自覚している王ダビデがいます。そのことを感謝している王ダビデがいます。しかしこの神を畏れ敬う王ダビデもまた罪を犯します。人妻バト・シェバと姦淫をし、その夫ウリヤを戦場で死ぬように計らい、姦淫と殺人の罪を犯したのです(サムエル記下11章)。王という権力ある地位に就いているうちにおごりという心の隙(スキ)ができたのでしょうか。しかしダビデは家臣のナタンに罪を指摘された時、素直に悔い改めました。姦淫の結果生まれた子は死にました。罪はにがい結果をもたらしました。しかし神はダビデの悔い改めを受け入れ、彼を王の地位から退けることはなさいませんでした。彼の王国がとこしえに続くという約束を取り消すこともありませんでした。
サムエル記下には、ダビデに関わる色々な出来事が書かれていますが、ダビデは神への信仰を貫いて生涯を全うします。死期が近づいたとき、ダビデは、次の王となるソロモンに次のように語り彼を戒めました。
列王記上2:1~4
死期が近づいたとき、ダビデはこう言って王子ソロモンを戒めた。「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。また主は、わたしについて告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう」。
旧約聖書は、イスラエルの民が「神の民」というアイデンティティーに生きるかどうかをイスラエルの王がどう生きるかという形で語り継いでいきます。神の民を代表する王。ダビデ王は神を畏れ敬う王、神の民の王として生き抜いた信仰者でした。勿論完璧な信仰者はいません。