マルコ福音書のディボーションを続けています。先日、14章10~11節を読みました。
マルコ14:10~11
十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
たったの2節ですが、イスカリオテのユダが主イエスを裏切る行動を起こしたことが書かれています。これを読んで思いめぐらします。
ユダがなぜ、イエスを裏切ろうとしたのか、その理由は聖書には書かれていません。サタンがユダの中に入ったという説明がルカ福音書、ヨハネ福音書にあります。サタンは悪魔のことです。日本語には魔が指すというような言葉もあります。いつもなら絶対にすることがないことをしてしまう時に、魔がさしたと言います。ユダは主イエスの弟子として主イエスと行動を共にしていましたが、主イエスを裏切ります。主イエスを売るのです。
主イエスが捕らえられる場面においては、他の弟子たちが主イエスを見捨てて逃げてしまい、主イエスを裏切りました。
弟子のペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主イエスに語りました。しかし主イエスが捕らえられたあと、別の場面で「あなたはあの人と一緒にいた」と言われ、恐れにとらわれたペトロは自分を守るために三度も「あなたが何のことを言っているのか、私には分からない」言いました。彼も主イエスを裏切りました。
ユダやペトロのような裏切り行為は重大です。もしかしたら私たちは、自分はそのようなことはしないと考えるかもしれません。確かにユダやペトロのようなことはしないかもしれません。しかしユダやペトロの行為はわが身の行為ではないかと思います。
私たちは日々の生活の中で、これはしてはいけないと知りながら、まあいやと、それに身をゆだねることがあります。小さなことだからいいや、と身を任せてしまうのです。小さいゆえに、そうすることを自分に許容するのです。
ユダの行為は主イエスの死を導くという点で重大な罪でした。私たちが日々の生活で、本当にちょっとした小さなことにおいて、神さまのみ心に反することに身をゆだねることがあるとするなら、それは小さな行為に思えるかも知れません。しかし神さまの目から見れば、罪を犯すという点でユダやペトロと同じだと思わされます。
私は朝晩ていねいに歯磨きをしていますが、歯磨きに手を抜くことや、忙しさに紛れて朝の歯磨きを省略したりすることがあります。まだ磨いていないと気づいてもまあいいや、です。きちんとすべきだと分かっていても、さぼることをわが身に許してしまいます。怠け心のあることも知ります。怠け心、これもまた罪へと私たちを誘う危険なものであることに気づきます。
ユダの心がわが身にはないとは断言できないことを思います。