主イエスは弟子たちとの最後の食事の時、弟子たちがイエスを裏切ることを告げました。
マルコ 14:27
「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
するとペトロは
マルコ 14:29
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
主イエスがあなたはわたしのことを三度知らないと言うだろうと告げるとペトロは
マルコ 14:31
「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。皆の者も同じように言った。
過越の食事の前に主イエスがこの中に私を裏切る者がいると告げたとき、弟子たちは「まさかわたしのことでは」と心を痛めたと書かれています。しかしそれがユダであることが分かり、弟子たちは自分ではなかったと安心しました。そして主イエスから「あなたがたは皆わたしにつまずく」言われたときは、弟子は皆、つまずくことを否定しました。弟子たちは本音では、自分が主イエスを裏切るはずはないと自信を持っていることがわかります。
弟子たちはまだ若いので、自分を知らず、自分に自信を持てるのだと思いました。しかしまもなく弟子たちのその自信は打ち砕かれます。ペトロは三度、主イエスのことを知らないと語りましたから、自分がしたことに気づいたとき、愕然としたと思います。そして自分の弱さを思い知らされます。でもそれは信仰者にとっては大切なことです。そして恵みです。
人は年齢とともに自分の弱さに気づかされます。自分の弱さに気づいて自信を失うのか、それとも神に信頼して生きることを学ぶのか。学ぶことができれば、幸いです。
そしてクリスチャンの老人は、信仰者として立派な最後を迎えたいと願うかもしれません。キリスト者としての最後の証しとなるからです。私もそうありたいと願います。しかし実際にはどうなるかは分かりません。弱さを持つ自分が立派に振る舞えるという保証はありません。自分がどんな気持ちになるかは分かりませんが、許されるなら、最後の日まで祈ることができたらと思います。