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隠退牧師 holala によるブログ

ユダに芽生えたイエスへの不信

 今年の受難節はマルコ福音書を読んでいます。今日は14章10~11節。ユダの裏切りの場面です。イエス様の弟子の一人、イスカリオテのユダはイエス様を裏切り、イエス様を引き渡そうとして祭司長たちのところへ出かけました。そしてイエス様を引き渡す機会を狙っていたとあります。

 聖書には、ユダがなぜイエス様を裏切ろうとしたのか理由は書かれていません。理由は分かりません。イエス様に何か不満があったのでしょうか。彼は弟子に選ばれてからずっとイエス様と行動を共にしてきました。他の11人の弟子たちも同じです。しかしユダだけがイエス様を裏切る思いを抱き、具体的な行動を起こしました。

 イエス様の活動は人々の注目を集めました。ユダにはイエス様に対する何らかの期待があったと思われます。しかしイエス様はその方向に進みませんでした。ユダの心に焦り、もしくは裏切られたとの思いがあったのかも知れません。イエス様を窮地に追い込んだら何かが起きるかも知れないと考えたのかもしれません。

 私たち信仰者には神への期待があります。それは祈りの中に現れます。その期待がかなえられないこともしばしばあります。その時、信仰者は戸惑います。神はなぜ、私の願いをかなえてくださらなかったのか。

 今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が行われています。これに対して世界中から非難が浴びせられています。攻撃により街が破壊され、ウクライナ国民が命を奪われ、あるいは国外避難を余儀なくされています。生活が壊されています。強大な軍事力を背景に自分の思いを実現させようとする傲慢な権力者の行動。人の命を何とも思わない行動。一刻も早く、軍事攻撃がやむようにと祈ります。しかし攻撃の日々は続いています。神は何をしているのか、と思ったりします。すると神への不信が芽生えないとも限りません。この不信の思いはユダにつながるように思います。

 祈りが聞かれないからといって、信仰を捨てようとは思いません。しかしひそかに心のどこかに、神への不信が芽生えないとは限りません。ユダのように露骨に裏切ることはないかも知れませんが、静かな、神への不信が心の中に育つことがないとは言えません。どうしたらいいのでしょうか。

 あらためて思います。神は人間に自由を与えられました。そのことを信仰者は信じます。人間はその自由に基づいて行動をします。神は強制的に人間の行動を抑えることはしません。ロシアの大統領は自分の決断として軍事侵攻を命じました。神はそれを上から強制的に止めることはなさいません。人間に自由を与えられているからです。

 信仰者は同時に神が世界を支配しておられることを信じます。相反するような二つの命題の中に信仰者は生きています。

  • 神は人間に自由を与えられた。
  • 神は世界を支配しておられる。

 そして人間は、時に神の支配を信じられない状況におかれます。どうしたらいいのでしょうか。神ならぬ人間は悩みながら信仰に生きることになります。人は時間の流れに生きています。現在起きていることの意味は後になってわかることがあります。今何が起きているかだけで、惑わされてはならないと考えます。信仰者なら神に信頼して祈り続けること、生き続けること。信仰者として行動を続けること。そして後で振り返ること。神がどのように導かれたのか、確かめること。来年の今日、一年前の今日を振り返るように手帳に書いておくことにします。

 今日もウクライナのために祈ります。

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椿 白毫寺 2022.3.8