クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

讃美歌404番(山路越えて)

 讃美歌404番(山路越えて)には心惹かれるものがあります。

 作詞者は西村清雄(すがお)(1871-1964)。この歌は明治36年宇和島教会の伝道を応援して、松山に帰る途中、まだ鉄道の開通しない頃だったので、ひとり淋しくわらじがけで法華津、鳥坂峠の道をたどった時、その感興を歌ったもの。旅の歌ですが、人生行路を象徴した歌としてはなお人の心に触れるものをもっていると『讃美歌略解』(日本基督教団出版局)に説明されています。

4番
みちけわしく ゆくてとおし
こころざすかたに いつか着くらん

5番
されども主よ われいのらじ
旅路のおわりの ちかかれとは

 信仰者にとって人生とは神の国を目指す旅です。老いた私は自分の死を意識せざるを得ませんが、それはいつのことかは分かりません。心身共に衰える中、病気、伴侶の介護や死、生き甲斐の喪失、単調な日々を過ごすことは、「みちけわしく」です。このような日々がいつまで続くのか分かりません。「ゆくてとおし」に思えます。朝、憂うつな気分で目覚める時が時々あります。これも「みちけわしく」ではないかと考えます。

 「みちけわしく ゆくてとおし」ですが「旅路のおわりの ちかかれとは」祈らないと歌います。

 使徒パウロは、今すぐに死んで、キリストと共にいることを熱望すると語っていますが(フィリピ1:23)、そのような心境にはなかなか達することができません。

 「みちけわしく」ならばすぐに神の国に迎えられるのがよいと考えるかもしれませんが、旅路の終わりが近いことは祈らないと歌います。自分が死んで親しい人たちと別れてしまうさびしさを思うと「ちかかれとは」祈らない、祈れないという思いに、老いた私は共感します。また慣れ親しんだこの世の生活に心残りがあるのかもしれません。

 老いたキリスト者の気持も複雑です。

哲学の道