クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

裁判を受けた主イエス

 私はマルコによる福音書を読み続けていて、今週は14章の後半、主イエスが裁判を受ける場面を読みました。今はクリスマス直前ですが、主イエスの受難の場面を読んでいます。

 祭司長、長老、律法学者たちはイエスを何とか死刑にしたいと考え、人々から証言を求めましたが、決定的な証言はありませんでした。そこで大祭司が、「あなたはメシアなのか」とイエスに聞くと、イエスは「そうです」と答え、さらに続けます。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。これを聞いた大祭司はイエスは神を冒とくしていると語ります。裁判の結果、イエスは死刑宣告を受けます。

 するとある者がイエスにつばを吐きかけ、イエスに目隠ししてこぶしで殴り、また別な者が平手で打つなどイエスを愚弄しました。

 この場面を想像しながら思いめぐらします。神である方が人となり、この世に生まれメシア(救い主)としての働きをします。しかし人々はこの人を信じるどころか死刑宣告をします。死刑宣告を受けたイエスを人々は愚弄します。神である方が人となり、さらに愚弄される出来事を見ます。

 主イエスの姿は、神の前にへりくだり、自分を低き者とする謙遜の典型を見る思いをします。さらには人々が愚弄するのに怒り、抵抗することなく、なすがままにされる姿も、自分を低き者とする極みを見ます。それは聖書に預言された、人類を罪から救う救い主の姿でした。愚弄されたみじめな姿こそ、すでに預言された救い主の姿でした。

 私は聖書で、この出来事を読んでいます。そして思います。この愚弄されても抵抗せず、みじめな姿をさらしている主イエスが私の目の前にいるとしたら、私は何と声をかけたらよいのか、私は何をしたらよいのか、と。

 私の目の前にこの主イエスがいると想像します。私は主イエスと向き合っているのです。キリスト者としての私が、主イエスの前にいるのです。

 祈りつつ思い巡らしました。考えながら、散歩もしました。そして「主よ、愛することを教えてくださり感謝します」と言いたい、と思いました

 神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとせず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。そして十字架の死に至るまで、神に従順に歩まれました。

 徹底して自らを低くする主イエスの姿に愛を見ます。愛する時、自分を無にしないと独りよがりの愛になることがあるからです。

今日の味噌汁