クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人格形成的な生の活動

 若い時から私が折に触れ読んで来た神学者がいます。熊野義孝といいます。1981年に亡くなっています。1981年に牧師になって近隣の牧師先生方との読書会で読み続けてきました。最近、この方の『信仰論』を読んでいて、本質をズバッと書くなあと思わされた文章がありました。

「信仰」によって各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動を意味するなら、いわゆる「宗教」がつねにこの道程に沿うものとは言いがたい。

 心に刺さったのは、「各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動」という表現です。私の言葉で言い直せば、信仰に生きるとは神との交わりに生きることであり、この交わりを通してキリスト者はキリストに似た者となることを目指す、となります。人格形成的つまり信仰の歩みによって、神の教えに従いキリストという人格を目指し、キリストに近づき、キリストに似た者となる、これが信仰に生きることだというのです。

 するといわゆる「宗教」というものは、この信仰とは同じ道を歩まないことになります。なぜなら

自然的な宗教心のままで特殊な集団を作りあげ、その戒規に服することをもって宗教と名づける場合、古来稀(ま)れではなかった。稀れではなく、むしろそれが一般の宗教史的現実をなしてきたと言うことができる。

 宗教と呼ばれるものは、人間に自然に備わっている心で神なるものを信じて集団を作り、集団の戒規に従うことによって成立しているというのです。宗教集団は、信者が従うべき、教え、規則を持ち、それに従うことが信仰に生きることになります。

 日本人であるキリスト者は、日本という環境の中で育ち、宗教に囲まれて生きており、宗教的なものが身に備わっているのではないかと思います。それゆえ、キリスト者になっても、身に備わった宗教的なものが影響する可能性があります。

 たとえば日曜日には教会に集い、礼拝を献げ、献金をします。聖書を読み、祈り、聖書の教えに従う努力をします。これらが習慣的なもの、そしてそれが信徒の義務を果たすことと考えたりすると、自覚的な人格形成的な歩みを目指せていないことになるのではないか、という危惧を覚えます。

 キリスト信仰が各自の自覚に伴う人格形成的なものであることを弁えることは大切だと教えられました。

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 2022年のブログは今日で終わります。来年は、5日から始めます。ブログを読んでくださっている方に感謝します。2023年の歩みを神さまが祝福してくださるようお祈りします。

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今朝の味噌汁 ジャガイモと玉ねぎ