クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(2)信じる or 考える?

 信仰者は信仰的現実、霊的現実を信じます。聖書には、沢山の色々な信仰的現実が書かれています。

  • イエスはいつも私たちと共におられる(マタイ28:20)。
  • 神は耐えられない試練に遭わせず、神は逃れの道を用意しておられる(第一コリント13:13)。
  • 神は信頼できるお方である(申命記7:9)。
  • 信仰によって義とされた私たちは神との間に平和を得ている(ローマ5:1)
  • キリストは今いちどこの世界に来られ、最後の審判が行われる(マタイ25:31以下)。
  • 私たちは神の国に迎えられる(マタイ25:34)。

 聖書には、私たちが確かめることができない信仰的現実が語られます。そして信じたいと思うが信じられない、ということもあります。私自身、終末の事柄(キリストの再臨、最後の審判)は絵空事に思えて信じられない時がありました。今は「信じている」というより、「信じようと思っている」という気持ちです。

 「イエスはいつも私たちと共におられる」は、多くの信仰者はためらいなく信じているのではないでしょうか。時に試練に見舞われると本当だろうかと疑うこともありますが、祈りが聞かれてイエス様は私と共にいてくださるというのは本当だと思うと証しをすることもあります。

 そして信じたくても信じられない、ということもあります。信じられない自分を不信仰と思ったりすることがあるかもしれません。そのような時は、次のようにするとよいと私は思っています。「~を信じる」と言えない時、「~と考えることにする」です。最後の審判がまだ信じられないなら、どうしたら信じることができるのか、と思い悩むのではなく、最後の審判があると「考えることにする」のです。そうすると気持ちは楽になりますし、考えると次の行動が生まれてきます。「信じる」代わりに「考えることにする」のです。

 信じることはたいせつですが、さらに大切なのは信じてどうするか、です。ですから、信じることができると断言できない時は、考えることにして行動をすればいいと思います。

 神は本当に信頼できるのだろうか、信頼して大丈夫なのだろうかと自問自答していたら、結論は出ません。人間の心には不安や恐れが湧いてきますから、信頼するのはいいが、こうなったらどうしようか、心配だとか、の思いに誘われると信頼する決断がなかなかできません。ですから神は信頼できると考えよう。そしてこうしよう、と考え行動すればよいのです。すると、信頼して大丈夫なんだという体験ができ、心は信頼する方に傾いていきます。

 私たちの信仰は、聖書に書かれている信仰的現実、霊的事実を信じることにあります。私たちが信じるのは聖書が語る信仰的現実、霊的現実です。

 くどくなりますが、そもそも神がおられることすら、客観的に証明できる事実的現実ではありません。信仰的現実です。これを信じて私たちは信仰生活をするのですから、一貫性を持って信仰生活を送るなら、聖書が告げる信仰的現実を信じることが大切です。信じると言えない時は、「考えることにする」といいと思います。聖書が告げる終末の事柄は、本当だと「考える」ことにしています。

 そして今取り上げようとしているのは、キリスト者はキリストに結ばれているという信仰的事実です。

八重のクチナシ。よい香りです。散歩道