聖書は神の言葉と言われます。日本基督教団信仰告白には、聖書について以下のように書かれています。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
私は全くアーメンです。この告白をもとにどのように信仰生活を送るのか、これは大切な課題だと思います。
聖書が神の言葉であることを私は次のように受けとめてきました。自分が物事を考える時、聖書を土台にすること、それが私にとって聖書を神の言葉とすることでした。政治のことを考える時も、経済のことを考える時も、何を考える時も聖書を土台にして考えるということです。イデオロギーだとか、世の常識だとか、人間の知恵よりも聖書を優先します。これは今後も変わることはないと思います。
最近ある本を読んでいて「その通りだ」と教えられたことがあったので紹介します。<聖書から自分を解釈する>ということです。
聖書を神の言葉と信じている私ですが、聖書に向き合う時、聖書より自分が上に立つことがあります。基本的にこれは間違っています。自分を聖書の下におくべきです。それは分かっています。私の中に「肉」つまり生まれながらの人間の性質があり、神の言葉である聖書が語ることを素直に受け入れることができないことがあります。自分が上に立って聖書を解釈するのです。
「肉」が強いと、聖書はそう言うけれど、すぐには信じがたいし信じようとも思わない、となります。私は聖書を神の言葉として信じているので、「信じようとも思わない」という拒否的な思いにはなりません。むしろ「信じたいけど信じられない」という思いです。たとえば聖書が語る「滅び」です。
聖書の教える救いとは何でしょうか。それは最後の審判における救いです。最後の審判で裁かれる結果は二つ。永遠の破滅か、永遠の命か、です。永遠の命に入れられる、これが救いです。永遠の滅びからの救いです。
ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
これを読むと明らかに救いとは、滅びからの救いであることが分かります。しかし「滅びからの救い」ということは私の周辺では、明確に語られることが少ないと思います。私自身、明確に語りませんでした。あいまいにしたのです。
若い時、伝道とは脅迫することではない、と教えられたことが心にとどまったのです。イエス様を信じない者は滅びる、だから救いを求めよ、と語ることはある意味で脅しになる。こういう語り方をしてはいけないと教えられたのです。むしろ救いの恵みを語ればよい、と。なるほどと思いました。
それからしばらくして他教派のある牧師が、葬儀こそ伝道の機会だとおっしゃるのです。人は死んだらどうなるのか。滅びに入るか、救いに入るか。これは人生で最も大切なことである、と語るのです。葬式の時こそ、死後のことを考えるのによい時だというのです。だから救いに招くというのです。故人は救いに入れられた。今生きている皆さんはどう思うか、と迫るわけです。これは私には脅迫に響いたのです。
脅迫的に響けば、人は耳を閉ざします。だからといって、滅びを語らなければ救いはあいまいになります。滅びを真剣に受けとめなければ、罪からの再生、聖化、ということはあまり語られなくなり、罪の赦しだけが語られることになり、これは不健全です。
<聖書から自分を解釈する>と教えられて納得しました。聖書を神の言葉とするとは、聖書から自分を解釈することなのです。自分が聖書の上に立ち、聖書を解釈するとなると、自分が信じがたいことはあいまいにしてしまいます。聖書から自分を解釈すると教えられて、聖書の下に立つことが素直に行える思いにされました。聖書の上に立ってはいけない、と悔い改めに導かれました。