クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 12月21日は市民クリスマス。今年は県立音楽堂のコンサートホールで行われました。私は説教の務めを与えられました。説教時間は10分ほどとのことで、何を語るか、どう語るか祈りつつ考えました。イエス・キリストは救い主であるということは、人間には救われない事態があることを前提としています。そこで今回は、救われないで生きることと救われて生きることの対比、そして死後の救いと滅びの対比を語ることにしました。しかも10分で(^_^;)。いつも頭の中で考えていますが、車を運転していたある瞬間、できた!と思いました。後は文章化すればいい。前々日に原稿を書き、当日に臨みました。
 コンサートホールは広いです。一階は北陸学院の生徒席。2階〜4階は市民席。教会員の方々もきてくださり感謝でした。祈って支えてくださいました。
 ゆっくりとしかしはっきりと語るように努めました。ろうそくから出る煙が煙くて難儀しましたがイエス・キリストを宣べ伝える説教ができたと感じました。礼拝の後の第二部は森祐理さんのコンサート。震災に関連した歌が心に残りました。帰りは教会まで余韻を味わいながら歩いて帰りました。以下はその説教です。

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聖書 ヨハネ3:16〜21
説教 クリスマスの喜び
2016/12/21

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 今日は、多くの皆さんとクリスマスをお祝いすることができることうれしく思います。イエス・キリストは私たちの救い主です。「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。これがクリスマスの出来事です。


 イエス様は私たちの救い主です。では、イエス様は私たちを何から救ってくださる方なのでしょうか。いつもの市民クリスマスですと、イエス様の生誕劇が演じられます。天使がマリアの婚約者ヨセフに現れて言います。

ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。

 「この子は自分の民を罪から救う」と天使は語りました。そうです、イエス様は、私たちを罪から救ってくださる方です。


 それでは、罪から救われるってどういうことなのでしょうか。聖書を読みます。ヨハネ福音書3章16節。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。

 つまり神の子イエス様を信じる人は滅びないで永遠の命を得ると教えています。しかし信じないと、人は滅びる可能性があると警告しています。逆にイエス様を信じるなら、永遠の命を得るという約束が語られています。イエス様は、罪がもたらす滅びから私たちを救ってくださる方なんです。人は死んだ後、神さまから与えられた命をどう生きたのか、
神さまにさばかれると聖書は告げて言います。その裁きで、永遠の命を与えられるのか、それとも滅びるのか、決まります。イエス様を信じる人は、死んだ後も永遠の命を与えられて生きることができます。イエス様による救い、それは第一には<滅び>からの救いです。


 救いには、もう一つの救いがあります。私たちはこの世に生きています。私たちはそれぞれの人生を歩んでいます。私たちは、救われて生きるか、救われないまま生きるか、どちらかの歩みをします。そのことについて、聖書はこう述べています。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
それが、もう裁きになっている」(3:19)。

「光が世に来た」とは、イエス様がこの世界においでになったことを意味します。人々は「光よりも闇の方を好んだ」というのです。光であるイエス様を信じることをしなかったというのです。その結果は、闇の中を歩むようなものだというのです。イエス様を信じないので光の中を歩むことができず、闇の中を歩む、そのことが既に神のさばきになっているというのです。イエス様を信じないことの報いになっているというのです。


 私はかつて闇の中を生きていました。小さいときから死の恐怖を感じて生きてきました。いつか死ぬと思ったら、何をしても空しいと感じました。どんなにうれしいこと、喜ばしいことがあっても、それは一時的な喜び、一時的な幸福でした。私の心は、決して失われることのない喜び、満足を求めていました。私は自分の頭の上に厚い雲があるのを感じていました。その雲が晴れて明るい日射しが照るのをどんなに待ち望んだことでしょうか。イエス様を信じない人は、それぞれに闇の中を生きていると私は考えています。他の人たちがどんな闇の中を生きているか、私は分かりません。しかし私が闇の中にいたことは確かです。


 人生は思い通りになりません。そこで、折り合いをつけて生きていくのが人生だと人は言います。しかしイエス様は言うのです。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。

エス様を信じる人は飢え渇きを覚えません。イエス様は、心が充たされる人生を与える方です。イエス様を信じる人は、心の奥底に、充足感、平安を与えられます。ここには救われて生きる人の人生があります。

「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい」(テサロニケ一5:16−17)

との教えが聖書にあります。いつも喜び、すべてのことに感謝できる人生があります。
エス様によって救われた人の人生です。いつも喜び、すべてのことを感謝しつつ日々を過ごせる人生があります。イエス様によって救われた人の人生です。罪は私たちの滅びをもたらし、闇の中を歩む人生をもたらします。


 それでは罪とは何でしょうか。罪とは神さまを大事にしないことです。神さまの心を大切にしないことです。たとえば妻を大切にしない夫がいたとします。あるいは夫を大切にしない妻がいたとします。この人たちの結婚生活は幸福に満ちたものとなるでしょうか。あるいは子供を大切にしない親がいたとします。その子供は幸せな家庭に生きていると言えるでしょうか。罪とは、神さまを大切にしないことです。神さまを大切にしない人の人生は闇の中を歩むようなものです。しかし人はなかなか自分が罪を犯しているとは気づきません。それどころか、自分は幸せであるとさえ思っています。自分が罪を犯していることは、神さまが教えてくださらないと気づかないのです。


 私は若い頃、バリバリ仕事をするサラリーマンでした。仕事にはストレスがつきもの、私はタバコをよく吸いました。仕事を休憩するときのタバコの一服はおいしかったです。ある時、仕事の関係で講演会に出かけました。講演を聞いているとき、咳き込んでしまいました。そこでハンカチを口に当て、咳が治まるのを待ちました。そして口から離したハンカチを見ると、血がべっとりとついていました。頭が真っ白になりました。自分の身に何が起きているのだろうか、と足が震えました。そのころ私は教会に通い始めていました。「自分は神さまから与えられたこの体を傷つけているのだ」と思いました。神さまに対して罪を犯していると、初めて自分の罪を知りました。自分はどうなるのか、病気になっても仕方がない、いや死んだって仕方がないとさえ思いました。罪に対する神さまの罰が降っても仕方がないと思いました。そしてしばらくして思い出しました。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で亡くなったこと、イエス様を信じる人は罪を赦されると礼拝の説教で語られていたことを思い出しました。そして私は、神さまに赦しを求める祈りをし、その後洗礼を受けました。


 聖書にはダビデという王様が登場します。彼は信仰深い王でした。しかしある時、彼は人妻を自分のものにし、その人妻の夫を戦場で敵によって殺されるように手配をし、彼を死なせました。モーセ十戒によれば、彼は姦淫と殺人の罪を犯したのです。でもダビデは王です。思い通りに振る舞うことができるのです。彼は、自分は信仰深い王であるとの誇りを持っていたことと思います。ダビデは自分が大変な罪を犯しているとは自覚していません。ある時家来が、ダビデを戒めます。その時ダビデは、

「私はあなたの前に罪を犯しました」

と神さまに告白しました。神さまに対して自分は罪を犯したと自覚できるのは、実は神さまの導きによります。神さまの導きを受けなければ、人は自分が罪を犯していることに気づきません。人には誇り、プライドがあり、自分の罪を認めようとはしません。その結果、人は自ら滅びる者となり、闇の中を歩む者となってしまうのです。自分が救いを必要としていることに気づきません。でもイエス・キリストはあなたを救うためにこの世においでになったのです。


 私たちは教会の礼拝に通い、説教を聞き続ける中で、神さまの導きによって自分が罪を犯す者であることに気づかされます。それは幸いなことです。なぜなら滅びから救われ、この世にあっては光の中を歩むことができるからです。イエス様はあなたを救いに招くためにこの世界においでになりました。今日の市民クリスマスが、皆さんにとって祝福の時となりますように。