holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

滅びについて

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

(ヨハネ3:16)。

 このよく知られた聖句は「滅び」に言及しています。人間には滅びる可能性があることを示しています。「滅び」を主題にした説教を私はしたことがありません。滅びとは何か、心にずっと引っかかっていたので、調べてみました。イエス様は滅びについて何回か言及しています。以下に紹介します。

マタ 7:13
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

マタ 10:28
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

マル 16:16
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

ルカ 9:25
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

 滅びについて語られていますが、滅びが何なのか、それは語られていません。新約聖書全体を見ても滅びは何なのか、語られていないように思います。ヨハネ黙示録には、「火と硫黄の燃える池」との表現はあります。この池に投げ込まれることが第二の死とあります。

 滅びということで忘れられないのは、イザヤの言葉です。イザヤ書の出だしはこうです。

「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」。

 神の臨在に触れたイザヤは次のように語ります。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」。

 イザヤは神の臨在に触れ、自分の滅びを予感しました。私が初めて自分の罪を自覚させられた時、自分は神さまに裁かれても仕方がないと感じました。滅びに似たものを感じました。滅びとは、言葉で説明できるものではなく、神の臨在に触れて感じるものなのかもしれません。私たちは、滅びがあることをわきまえ、神を畏れ敬い、救いを感謝して生きることが大切なのだと思いました。