クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

限りある人生(2)

 生まれるに時あり、死ぬるに時ありと聖書にあります。それはいずれも神が定めた時です。人は神が定めた時間を人生として生きることになります。

 牧師となって最初の教会に赴任した時、近隣の教会の年配の牧師が口癖のように語っておられた言葉は忘れられません。

「御用のあるうちは召されない」。

 神さまによって用いられる間は死ぬことはないとの意味です。その牧師には持病がありました。再発の恐れを持ちながら、「御用のあるうちは召されない」と語り、牧師の務めを果たしておられました。忘れられない言葉です。でも若い私はそんなものかなと思った次第で、老境の中にある牧師の気持ちは理解できませんでした。

 御用がなくなるとは、神から見てその人が御用済みとなり、捨てられ、それが死となるということではありません。それはその人が神に用いられる人生を終えたということです。その人は己の役割を終えたことを意味します。神から与えられた命、人生を全うしたということです。

 なぜ私たちの命には限りがあり、私たちは限りある人生を生きることになるのでしょうか。その理由は私には分かりません。神は、それが人間にとって最善と考えておられるのではないかと考えます。同時にイエス・キリストを信じる人は永遠の命を持っている、与えられると聖書は書いています。それを信じて、限りある人生を歩みます。

 私は人生は山登りにたとえることができると考えます。私は頂上を目指して歩みます。道は歩きやすいとは限りません。困難な箇所もあります。ともかく頂上を目指して登り続けます。

 頂上は神の国です。でも私たちは頂上まで登り続けることはできません。頂上はあまりにも高いからです。でもある時神は「もう登らなくて良い。よく登ってきた」とおっしゃって私たちを頂上に引き上げてくださるのです。頂上、それは神の国です。

 神さまは神の国という目標を与えてくださり、私たちはそこを目指す人生を生きるのだと私は信じます。

ろうばい 馬見丘陵公園