十字架の場面のひとつの特徴は、イエスが人々から侮辱されたことである。最高法院の議員たちは
「他人は救ったのだ。神からのメシアなら、自分を救うがよい」
と言って、イエスをあざ笑った。主イエスを十字架につけたローマの兵士たちは
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」
と侮辱した。十字架につけられた犯罪人の一人は
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」
とイエスをののしったとある。
人間というのは自分に対するこのような嘲り、ののしり、侮辱に対しては憤りを覚えるものである。そして敵意、憎しみを抱く。しかしイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈っている。
ここに登場する人間は自己中心という立場に立っている。そこからイエスをののしり、あざ笑い、侮辱する。しかしイエスは、愛という立場に立つ。自己中心の立場に立つ者たちの罪に怒り、これを責めることをしない。むしろ罪の中にある者への憐れみから、父なる神に赦しを祈っている。
ゲッセマネの園で、この杯を取りのけてくださいと祈られたイエスは神に御心を行ってくださいと祈り、その御心に従うことにした。イエスは神と心を一つにする。つまり罪を犯した人間を救うという神と心を一つにし、人間を救うために自分が果たすべきことを果たす。この場面では、人々のなすがままに身をゆだね、死ぬことを神の御心として受け入れている。
このようなひどい仕打ちに遭うことを神の御心としてイエスは受けとめる。イエスは活動に先立ち、荒野で悪魔の誘惑を受けた。悪魔はイエスに世界のすべての国々を見せ言った、「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」。イエスは今、一切の権力と繁栄とは、全く反対のところにいる。全く無力であり人々の侮辱を受けている。
悪魔の声に従っていれば、こんな目に遭わないで済んだのにとは、イエスは勿論考えない。神の御心を果たす中で、今の自分があること、今の状況のあることをイエスは受けとめる。それは人類の救いのため、そして私の救いのためである。
死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況もあるのにイエスはなお神に従順に歩まれた。人々の侮辱・ののしり・嘲りは、イエスにとって神に従順に生きることの妨げにはならなかった。神に対してイエスは徹底して従順に歩んだ。僕にもこの徹底さが必要なのかも知れない。信仰に生きることを徹底すること。パウロはロマ書を書いた時その出だしで、自分が福音を伝えるのは信仰の従順に導くためであったと書いている。
人間を救うために徹底して神に対して従順に生きるイエスの従順。このイエスの従順は、当たり前のものではなく、真実なものであると受けとめる。そしてこの真実に目を留めるなら、信仰者がひそかに抱く不信仰は砕かれ、神への従順に導かれるのではないかと思う。