パウロがキリスト者がキリストに結ばれていることを語ったのには理由があります。パウロはローマの信徒への手紙3章でイエス・キリストを信じる者は、その信仰によって義とされると語りました。人は律法の行いによるのではなく、信仰によって義とされると教えました。義とされる、これは神の恵みです。
するとひねくれた考えをする者が言います。「恵みを得るために罪を犯そう」。パウロはこのような人が出ることを予想して言います。
ローマ 6:1~2
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
キリスト者は罪に対して死んだので、罪の中にとどまることはできないと語ります。そして続けて3節でキリスト者はキリストに結ばれていると語ります。キリストに結ばれたキリスト者は罪の中に生きることはできない、と語っていることになります。
ここで注目すべきことは「罪に対して死んだ私たち」とあることです。「罪に対して 死ぬ」というのは珍しい表現です。「死ぬ」という言葉には、「病気で死ぬ」「交通事故で死ぬ」など死んだ理由を示す言葉を伴う表現が普通です。「病気に対して死ぬ」「交通事故に対して死ぬ」と言われても、意味は分かりません。「罪に対して死ぬ」という表現も意味が分かりにくいです。
そこで6章をさらに読みます。聖書は聖書によって解釈します。7節にこうあります。
6:7
死んだ者は、罪から解放されています。
「罪」という言葉には、人間に罪を犯すように働きかける力という意味があります。「罪の中にとどまる」とは、罪の力に負かされて罪の支配の中に生きることを意味します。
キリスト者は罪に対して死んでおり、罪から解放されているので、赦しの恵みを得るために罪を犯そうなどとは考えるはずがない、とパウロは述べていることになります。
罪が、罪を犯すように働きかける人間は生きている人間です。死んだ人間にいくら罪を犯すように働きかけても効果はありません。死んだ人間は罪の働きかけ、あるいは罪を犯すように支配する力を受けることはありません。死んだ人は罪を犯すよう働きかける力とは無縁です。言い換えると死んだ人は罪を犯すよう働きかける力から解放されている、そのことを現すために、「罪に対して死んだ」という表現が用いられています。
キリスト者はキリストに結ばれており、キリストと共に死にました。その結果、キリスト者は罪に対して死んだというのです。
6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。
キリスト者は洗礼によってキリストに結びつけられ、キリストと共に死に、罪に対して死に、罪から解放されました。キリストの十字架の死は、罪の赦しをもたらすだけではなく、罪の支配から解放する死でもあったとパウロは語ります。
讃美歌124番
つながれしつみびとを はなちます君よ
カルバリにくるしめし 人のつれなさよ
住みたまえ、きみよ ここに、この胸に